新幹線に乗る夢

 どこかに出かけたいという思いと、以前に2年連続でバウムクーヘン博に出かけた際、慣れない方角への旅行であれこれと調べた経験からか、最近よく新幹線が夢に出てくるようになった。ただ、内容はとてもスケールの小さいもので、普段見ている夢とたいして違わないような悩みや、ちょっとしたトラブルしか出てこないのだが。

 今朝は西の方のどこかの駅に半日だけ用事があった夢。その用事も終わり、一緒にいた誰かから「広島も島根も近いですし、ちょっとどこかに出かけてきたらいかがですか」と言われるのだが、いや、島根は新幹線が停まるどこかの駅から近かったような記憶はないし、ちょっと時間つぶしに行けるような場所ではない気がするぞと思っていると、なぜかわたしの田舎の家に場面が飛んでいた。そこでは兄(実在の兄とは見た目が違う)とその仲間たちの集団が爆音のバイクでやってきて「おっと、新入りが首にGPSを埋めこまれてしまったな、この家もばれたかもしれない」と物騒な話をしている。田舎の母が(母自身は心配要らないので)わたしに帰った方がいいという。すると次には、そこを出たら、東京の自宅だった。トイレの隅に汚物がふたつもあって、いったいなぜだろうと話しているシーンに飛んだのだが、ほんとうに夢とは脈絡のないものだ。

 10日ぶりくらいに田舎の母に電話し、母の体調について尋ねた。夢に出てきたことを話すと、熱心に耳を傾けてくれた。そういえば母も、母の姉であるわたしの伯母も、以前からよく夢の話が好きで、話が出ると食いついてきてくれたものだった。伯母は存命だと思うが、しばらく話を聞かない。どうしているだろうか。

 新幹線に乗る夢と、もう校舎としては存在しない中学校の夢をよく見る話などで、最近にしては長く話したように思う。数か月前は体調不良でいつ電話しても内容が暗かったが、最近では少しだけ明るくなったようだ。
 若いころも、最近も、苦労のある人なので、のんびりと過ごしてもらいたいと思う。

かつて、500円チーズケーキの店が乱立した

 少ない商品数でそれだけをひたすら販売するビジネスというのは、もし当たった場合はよいのだが、そうでない場合は数か月で撤退ということにもなりかねず、かなりきわどい賭けになるように思う。

 30年近く前だが、都内のあちこちに500円チーズケーキの店ができた。高円寺北口の細い商店街にもあった。わたしの記憶では1種類しか販売していなかったと思う。作って間もない時間で販売されていたのか、まだぬくもりがあったか、あるいは常温での販売だった。作ってから冷やして売るタイプの商品ではなかった。
 職場に一度買っていったら好評で、そのうちまたと言われたが、そうこうするうちに店がなくなった。そして都内のほかの場所でも、そういった店を見なくなった。1品に頼るのは、商売としては難しいところだろう。

 さて、いま「食パンだけ」など、種類がほんとうに少ない状態でひたすら売る店の噂を耳にする。たとえば銀座で行列が絶えないセントルザベーカリーは食パン3種類だと聞く。そして何十年も前から話題の浅草「ペリカン」もまた、食パンとロールパンの2種類にサイズのバリエーションが少しあるらしいと聞くのみで、ほかのパンはないとのこと。さらに先日などは「クロワッサン専門店ができたらしい」とネットで読んだが、そこは2種類のみだそうである。

 食パンは、まずくなければだが、人は買う。朝をパン食と決めている人も多いであろうし、味がよくて立ち寄りやすい店であれば、ヒットするだろう。だがチーズケーキやクロワッサンで取り扱いのラインナップが少ない店は、どうしても商品が嗜好品であるとの扱いを受けがちであり、客に飽きられたら最後というリスクがあるのではないだろうか。立地や予想される客層などを吟味の上、つねに新しい人が買い求める可能性のある場所に店を出すことになるだろうが、場所がよければ家賃も跳ね上がり、かといって少ない品目では価格調整もなかなか思うようにいくまい。
 そういえばメロンパン販売も全国に多く存在するだろうが、メロンパンの場合は○○メロンパンのような名前で種類を作れることと、形を変えたりすることで、工夫できる可能性があるのだろうか。野方のアルテリアベーカリーは数か月前に閉じ、近く高円寺北口に出店予定のようだが、どうなることやら、遠巻きにお手並みを拝見するとしよう(^o^)。

 食パン専門店は、まずくなければ生き残れる可能性があるが、嗜好品は確実に「美味くなければ立ちゆかない」。がんばっていただきたいとは思うが…シンプルなものを少ない品目で販売する場合には、商品の特徴をどう出していくかがつねに鍵になるだろう。

 さて、明日はわたしもひさびさにクロワッサンを焼こうと思っている。うまくいったら画像を(姉妹ブログ「食べる日々」のほうに)掲載予定。

外国人のための、やさしい日本語表現というが…

 東京新聞の記事(2019.01.13 → 医療に「やさしい日本語」 外国人「初診」「アレルギー」どう伝える)を読んだ。

 たしかに、症状が出ている最中は相手も不安だろうし、あわてているかもしれないから、意味が通じることを最優先に考えるのはもちろんだ。そしてさまざまな言い換え表現を提唱している方々がいることは、とてもすばらしいとは思う。だが…なんとか日本語らしさを残しつつわかりやすい表現を使っていくべきではと考えるのは、贅沢なのだろうか。

 たとえば、この例。
「軽快しましたので、これ以上の通院は不要です」→「よくなったので、もう来なくていいです」
 わたしは、これは言いたくない。もちろんわたしは医療関係者ではないし、何かで困りきっている外国人と日本語で接する機会を持たないので、わたしがこれを言わなければならない状況はなさそうだが、それにしても「来なくていいです」は、わたしの語彙にはない。

 では、なんというか。うぅむ…わからない。「来なくて大丈夫そうですね?」は通じにくいだろうし、「あとは家で様子を見ているだけでいいと思います」と言ったらもっとわからないだろう。だが「来なくていいです」は、言いたくない(笑)。

 もともと、わたしは日常の雑談をする相手がほとんどいないので、普段から日本語に漢字らしさがはいる。大昔に病院の付き添いで(本人が)おしっこがしたいと言っていた際、近くにいた看護師さんに「尿意があるようです」と伝えて、聞き直しされた。だがそれがわたしの通常の話し方だ。

 わたしはいまこうして頭の中で「自分が言葉を変えろと言われたらどうしよう」と考えこんでいるに過ぎないが、普段ご自分なりの語彙がある医療現場の方々は、たいへんだろうなと、想像している。

イギリス人と日本人の感覚は、近いのかもしれない

 いまBBCの記事を読んでいたところ、イギリスとアメリカとで同じ英語がどう解釈されるかという調査結果が掲載されているのを発見した( → YouGov survey: British sarcasm ‘lost on Americans’ )。これが最初ではなく、この手の調査はときどきあるらしい。

 かいつまんで書けば、イギリス人が大げさに表現するときは逆の意味が多いのだがアメリカ人にはそれが通じていない場合がある、という話の流れだ。逆に、控えめに話したときは褒めているのに、相手にはそれが通じていないことがある、とも。

 事例として:
○ イギリス人が I’ll bear it in my mind.(気にかけておく)と言ったら、それはもう頭から消えているくらいの意味合いだろうが、アメリカ人は真面目に受けとることがある。
○ You must come for dinner. は、食事に来てと誘っているわけではなく社交辞令だが、額面通りに受けとられることがある。
○ not bad (なかなかいいじゃないか)とイギリス人が言っているつもりが、アメリカ人に「さほどじゃないんだ」と思われている可能性。
○ Very interesting (とても興味深い→ゴミみたいな話だな)やら、That is a very brave proposal(大胆なご意見ですね→アホ?)を、アメリカ人は褒められたと思ってしまう。

 …なんだか、日本人とイギリス人の感覚が近いような気がしてきた。さらに言うなら、京都の「ぶぶ漬けでもどうです」という話のように、京都人がイギリス人で、東京人がアメリカ人だろうか。
 まあ、この差もだんだんと薄れていって、地域差というよりは年代などの違いになっていくのかもしれないが。

本を読んで泣いたことがある

 先ほど以前に録画しておいた映画を見た。ポール・ゴーギャンを題材にヴァンサン・カッセル主演で制作された「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」というタイトルのものだ → シネフィルによる紹介サイト
 いや〜、ヴァンサン・カッセル…。かつてはギラギラとした役柄の多い個性的な若手俳優だった彼が、ここまで老けオヤジのメイクはすごい。おっと、見た目の話で失礼。

 フランスの暮らしに疲れてタヒチに出かけ、現地で出会った娘と恋に落ちて一緒に暮らし、病を得てもその日々を守ろうとしたが、やがてふたりの間には齟齬が…といった話である。作品の出来としては、まあまあ楽しめた。

 さて、これを見ながらずっと「大昔に”月と六ペンス”を読んで泣いた記憶がある」と考えていた。だが記憶をたぐっても「月と六ペンスってなんだっけ」レベルで、まったく覚えていない。だがこの映画を見ながら思い出したのだからゴーギャンをモデルにした話だったのだろうと検索したら、はたしてその通りであった。設定がフランス人のところがイギリス人であったり、舞台の島が変わっていたり、などである。

 大昔の小説なので英語の原文がプロジェクト・グーテンベルクとしてインターネット上で公開されている。

 昔は、本で泣いたことがあると思い出した。月と六ペンスは東京に出てきてから読んだが、中学か高校のころに読んで呼吸ができないほど泣いたのがドストエフスキーの「虐げられた人々」だ。日本語版Wikipediaにあらすじが(あらすじとも思えないほど細かく)載っていたので、いましみじみ読んできたが、だいぶ細部を忘れていた。だが作品のどこで泣いたかは、なんとなく覚えている。

 よく考えると、「虐げられた人々」にはまったわたしは、ドストエフスキーやらトルストイやら、いまから思うと寒そうで暗そうな話を片っ端から読んでいた時期がある。おそらく、泣くほどすごかった体験というのが当時はそれほど多くなくて、また同じようなものに出会いたかったのだろう。

 本をじっくりと、泣くほどまでには読まなくなってきている現在。そして情けないことに「泣いた本ならこれとこれ」と、そくざに何冊も言えたはずなのに、いまでは名前を挙げることが難しくなってきた記憶力の衰退。嘆かわしいことである。

食材を無駄にしないためのサービスがあるそうだ

 今日どこかで(夕刊だっただろうか)読んだのだが、うろ覚えだったのであらためて検索してみた。

 飲食店で、仕込んでしまったあとで食材があまった場合に、別の料理に作り直したりすることが難しく、しかもまかないにも使えない事情が生じれば、廃棄になってしいまうこともあるという。
そこで、お店がサイトに情報を登録しておくと、割引価格でその料理をテイクアウトできるサービスというのがあるそうだ。紹介されていたのはこちら → tabete.me

 スマホアプリを帰宅前に見れば、タイミングがよければ帰宅時に食事が持ち帰れる可能性もあるため、勤め人には大助かりではないだろうか。

 ほかにもサービス提供会社は増えつつあるらしい。こうした動きは、どんどんとひろがってもらいたい。

進む西暦化

 4月1日に新元号が発表されるということで、早くも(エイプリルフールと重なることもあって)ネット上ではお祭り騒ぎになること間違いなしの状況だ。虚構新聞はどういうネタを持ってくるかと、いまのうちから楽しみにしている。

 今日は溜まりに溜まっていた通帳をすべて持って銀行や郵便局のATMを回った。通帳というのは溜めすぎると合算されるので、1年に数回程度は記帳したほうがよいのだが、めったに使わない口座は1年以上も放置してしまいがちだ。だから今日は思いきって3銀行分の通帳をすべて持って出かけた。

 みずほ銀行が、12月10日ころを境目にして、西暦になっていた。30と書かれていた欄が18や19に変更になっていて、説明として「西暦に変更」と印字も。なるほど、銀行にしてみればぎりぎりまで待って対応するよりは、西暦に統一してしまったほうが安心だろう。外国とのデータやりとりでもほとんどの国が西暦のはずだ。

 もともと個人的に和暦は好きではなかったが(覚えられないので)、こうしてあちこちが西暦になっていくと、国としてはどこの機関(またはどんな場面)で使用をつづけていくことになるのだろうか。

「奇跡の人」は、サリヴァン先生だった

 最近よく、70年代くらいのアメリカ映画「奇跡の人」のシーンを思い出す。サリヴァン先生がヘレン・ケラー(少女時代)の手に水を触れさせては、手のひらにwaterと書く。ようやくヘレンは先生が自分に文字を教えようとしていることに気づく場面だ。

 なぜ思い出すかというと、どんどん症状が進んでいる認知症義母を見ていてのことだ。世話をしているとき、家族が強めの語調で「違う、そうじゃない」などと言おうものなら、感覚をすべて遮断して「この人の言うことは聞く必要がない」とばかりに、無関係なことをしはじめる義母。仕方がないのでわたしがあいだにはいり、義母の手をとって物に触れさせ、何度も何度も同じことを言う。すると義母は(わたしの語調からの想像で)わたしが責めているのではなく何かを教えようとしているのかもしれないと、耳を貸す。そしてようやく話が通じる…そんなことのくり返しだ。

 で、これをよく思い出すのでサリヴァン先生を検索したら、Wikipediaに「日本では奇跡の人をヘレン・ケラーのことと考える人がいるが、サリヴァン先生のことである」という意味の記述が。おぉ、そうだったのか。
 たしかにそうかもしれない。多くの人が適切な接し方もわからずにいたヘレン・ケラーを教育し、その人生を導いた。努力と奇跡の人なのだ。

 ちょっとした連想から検索してみて、ひとつ賢くなった。

いつも最後まで残るおせちの種類は

 毎年のことなのだが、必ず最後まで残るものが「松前漬け」だ。数の子と一緒につけておくもので、数の子が高いこともあるし無駄にしてよいはずがないのだが、なぜか毎年「ああ、できたできた」と元日に少し食べて寝かしてしまう。今年は作る量を減らしたが、それでも元日以来ほとんど食べていない。

 ほかのものは順調に減っている。今年はなぜか紅白なますがまだ残っているが、さすがに味が落ちてきた(水っぽくなってきた)ので、そろそろ食べきらねば。例年以上によくできた栗きんとんは、まだ残っているものの、これは砂糖の比率が高いので日持ちするはず。それでも、できるだけ早く食べるとしよう。

 今年は思いのほか伊達巻きが絶品だった。これは直後に食べきってしまった。

 

いまどきSSL非対応のオンラインショップに思う

 以前に何度かFAX等で注文をした菓子店が、オンラインでクレジットカード対応のショップページを開設していることに数か月前に気づいた。ただ、そのときは見間違いかと思ったのだが、いまどきSSLに対応していない。

 できたばかりでSSLに対応していないのかと、何週間かに一度は見ているが、いまだに対応していない。しかもサイトの隅に「注文はこのオンラインショップで」と、かつてのようにFAXで受けつけてくれないかのような文言が記載されている。いったいどういうことだろうか。わたしは自分が買い物したことがある菓子店は無意識のうちに巡回していることが多く、その店のオンラインショップが完備したのはおそらくどれほど長く見ても1年以内くらいではないかと思う。1年くらい前の段階ならば、SSLに対応していないショップというのは、ちょっとありえないことだ。

 どうありえないかというと、忙しい製菓業のかたわら自分でネットにショップのソフトウェアをあげてメンテできる社員さんがいる可能性は、かなり低い。プロまたはどこかの業者に依頼したはずだ。つまり依頼された側がSSLに対応しなくてよいと考えたことになる。仮に店がネットのことに疎いとしても、業者が疎くてよいはずはない。

 いまのご時世、SSLに対応していなくてさほど問題にならないのは「読ませるだけ」のページである。あるいはせいぜい(電話番号やクレジットカード番号など深刻な情報を含まない)シンプルなコメントを書かせる掲示板くらいか。ログイン認証が必要なサイトや、個人情報の入力が想定されるサイトでSSL非対応というのは、いまどき考えられないことだ。数年前と違っていまは料金も下がっているし、わたしのように無料で使っている人間もいる(さくらインターネット、ロリポップ、ともに独自ドメイン使用者に無料でSSLを提供開始して1年以上経つため)。仮に店の側で知識や危機感がいまひとつでも、そこは業者がうまくとりなして、SSLに対応させるべきだ。

 商品は気に入っているし、これからもご縁があればと思う店ではあるが、かといってわざわざ「SSLに対応していないので、カード番号を入力できません」といった要望をメールする憎まれ役になるほどの度胸はない。

 こうした、実際に店舗で販売しているお店がネット通販に乗り出す際の情報リテラシー向上は、どこが音頭をとっていくべきものなのだろう。消費者側の立場で言わせていただくなら、IT関連のコストはケチらないでいただきたいが、おそらく店の側にしてみれば、間に立つ人間(業者)にまかせてあとは関与しないほうが気楽ということで、あまり学ぶつもりはないのが実情かもしれない。