誤変換の話

 あるKindle本で、誤変換がひどいものに当たってしまい、すっかり読む気がなくなったのだが「目的を誤変換探しということに変更して流し読みしよう」と決意。もう少しで読み終わるが、著者本人が見直しで発見できるはずの低レベルなものも多く「本人すら見直ししていない本」の様相を呈している。

 わたしはKindle Unlimitedで定額料だからよいのだが、もし買ったら数百円の本のようだ。ただしダウンロード時にAmazonのほうで(読者らの指摘により、誤変換などが多いため)修正するよう連絡したという表示があった。そこまでAmazonに書かせる本というものはどれほどかと、見てみたら想像よりもひどかった。

 たとえばだが
 ○○さんによれば → ○○産
 渋滞に引っかかった → 重体

 さらに、同音の言葉の変換ミス多数(ただし直前直後には正しい変換のものも混じる)、妙な改行挿入、句点が2個あるなど。
 個人ブログであっても、もっと真面目に書ける人はたくさんいる。

 さて今日は、わたしが印刷して提出する寸前だった誤変換「以下の通り、誤請求いたします」を紹介して終わりにしよう。これは試し刷りするまで気づかなかった。間に合ってよかった。

 それから、音としては同じだろうと思うのだが、聞き手は漢字を判断しにくいと思われる事例が「あなたは知らないかもしれないけれどゼンニンの○○さん」という表現。——前任か、善人か、知らない人についてはその段階では判断ができない場合もある。

マグカップ、デミタスカップの「カップ」

 マグカップというカタカナをそのまま英語圏の人に言ってしまうと、驚かれるという。実際にわたしの知人が知らずにそれを使い、相手がきょとんとした現場を見てしまったこともあった。なぜ驚かれるかというと、mug には、大きなカップという意味までが含まれているのだ。

 デミタスカップ demitasse も、タスがカップで、デミが半量なので「半分量くらいの小さめカップ」である。英語で話すときにカップ部分は不要。

 また、長ネギを英語で言う場合に、いろいろな言い方があるものの、long onion (長いタマネギ)と言えばけっこう通じる。これは日本語とは逆だなと、つくづく考える。
 日本語では「ねぎ」という概念が先にあって、その前に「たま」つかなければ、普通は長ネギを意味する。例語ではonionという概念があって、上に伸びているかどうかで考えるのだろう。

小説のネタを思いついたとき

 ネタは頻繁に思いつくのだが、だいたいにおいてわたしは「終わり方」のコツがわからない。これまできちんと終わったと思えるものがあったにせよ、数はそれほど多くない。

 これまでの、あるある事例。

 ○ このネタを書きたい、短編ならばだいたい終わらせられそうだと、構想を考える。
 ○ 細部まで考え終わらないうちに、余計なことを考える(例: どこのサイトに載せようかなど)
 ○ 細部が決まっていないのに「まずは書いてみようか」など、流れにまかせたいという誘惑が。
 ○ ここでまた「どこで(誰に)発表しようか、自サイトなのか、投稿サイトなのか…それによっては文体なども少し変わるだろうし、どうしよう」
 ○ これって、短編よりこういう風に膨らませたら、おもしろくね?(←そういう考えはまず短編を書き終えてから別作品として発展させればいいことなのだが、とことん脇道にそれる)
 ○ いや、とりあえず、書いてみよう。何か生まれるはずだから(←ひとつでもいいから終わり方の候補を考えてから書けって)

 …はたして、今回のネタは、どうしたらいいのだろうか。思いついているあらすじくらいは、どこかに書いておくとしよう。

昭和の昔の「疳の虫」

 何十年前だかわからないほど昔だが、日本のテレビ番組というのは、いまとは違うものを流していた。

 よく言われるのは、視聴年齢を分けていないドラマでの性(例:女性半裸は予告なく目の前に)、そんなに殴ったら相手が死ぬほどの激しい暴力シーン、さらに、どこにでも現れる喫煙描写だろう。だが、そういったものとはまた少し違う「昔ならでは」もあった気がする。

 たとえば子供でも見られる時間帯のテレビ番組で、人間の出産を(子供の頭が出てくる方向、つまり妊婦の股間から)見たことがある。教育目的の番組だったのか、どういった主旨だったかは覚えていない。けっこうな衝撃だった。
 茶の間に一緒にいた親はどうやら硬直していたらしいが、次の日にご近所の人たちが「昨日のテレビ番組、どうした、普通に見せちゃった?」、「うん、うちの子は真顔で見て驚いていた」などと立ち話をしていたので、やはりどこの家でも、多少は困ったことだったのだろう。
 一緒に親世代が見れば大丈夫という判断だったのだろうか。教育目的であったにせよ、現在なら普通の時間帯には放送しない気がする。

 また、心霊番組のようなものは昼も夜もたくさんやっていた。最近それが減ったのは、やはり社会的な歯止めと放映側の自主規制があるのだろう。

 そして、わたしがたまに思い出す「いったいあれは何だったのか」系のものが、これから書く「指から疳の虫が出てくる映像」だ。

 疳の虫(かんのむし)とは、実際に虫のような生き物がいるわけではなく便宜的にそう呼ばれるだけのはずだが、いらいらしている人の指先からそれを出すと(本人が)落ちつく、と考える人もいるらしい。その「疳の虫が出てくるところ」を、テレビでやっていた。どういった番組だったのかや、前後の脈絡は不明。

 わたしの記憶は、暗い場所を背景として、誰かの指先を大写しにしたものからはじまる。
 親指と人差し指だったのではと思うが、カメラの前でその指がゆっくり擦りあわされる。
 やがて、白っぽい、細い煙のようなものがそこから上にのびはじめる。糸のようにも見えるが、煙のようにも。なんだろうと思っていると、ナレーションがはいる。具体的には覚えていないが、意味としては「みなさん、これが疳の虫です」のような。

 いまも「疳の虫」で検索をすると、昔はこういう風に指先から出すことができる人もいたという話が載っている。だがわたしは子供心に「指にそんなもんいたら怖いじゃん、なにこれ」と、目が点になった。そしてそのころはテレビのCMで「宇津救命丸」というものも見ていたので「疳の虫に効くってテレビCMでやってるのは、そういう呼び名だけじゃなくて、こういう虫がほんとにいるということなのか」と、さらに驚愕。
 
 もっとも、わたしはそのあとで周囲の大人に「あれなに」と何度か尋ねた程度で、まともな返事をもらえないことから、やはりいないんだと決めることにした。そのほうが楽だし、気持ちが悪くないというものだ。

 だがあれから何度も何度も「あんなもんをテレビでやってたこと、そのものは、いいのか?」と、考えた。映像というのはかなりインパクトがある。子供のころに見たらなおさらだ。わたしは自分が気持ち悪くならなくて済むように「あれは嘘、あんなのいない」と決めてしまったが、逆に信じることにした人もいるかもしれない。

 これは実際には何でしょうねという問題提起だったのか、ただ「めずらしいでしょ」だったのかは、覚えていない。だが後者であるならば、見る層を制限した番組でやってほしいように思う(もし現在もそういったものをやっているならば)。

 積極的に地上波のテレビを見なくなって数年になるが、フィクションならフィクションと断る、宣伝なら宣伝と見る側にわからせるという徹底を、さらにお願いしたい。

 でも、まじであれは…なんだったんだろ…。

宝くじをネットで購入

 8月下旬だったと思うが、宝くじの公式サイトで会員登録をした。週に1回を目安に200円を使う。たまには100円や300円もあるだろうが、平均すれば月に1000円以内で収まる計算。

 連番で10枚買ってもたいてい外れるのだから、どうなるかはわからないが、オンラインでなければやってみようと思わなかったロト6の方法も、やっと理解した(←何十年遅れだよ)。

 それにしても、先ほどは自分の出身地の不動産が「4ldkで1千万円台」とか、とんでもない安さなので頭をかかえてしまった。だが田舎は車の運転ができなければどこにもいけず、タクシー利用またはときどき運転手を雇う(←運転手の派遣業というのはあるのだろうか)などしなければ暮らしていけない。コストは意外にかかると考えた方がいいだろう。

 高級品はともかく日用品ならば、徒歩で片道10分以内でそれなりに買い物も済ませられる。もう少し遠くまで行けば、そこそこの医療設備が整った大きめ病院もある。そんな東京23区内の恩恵に浴しているのだから、家賃や不動産が高くても、当たり前と考えるしかない。

坂口憲二さんは、焙煎士になったのか

 テレビドラマ「恋ノチカラ」というものに出ていた役者さん。病気ののちリハビリを経て、2015年から芸能活動休止中だ。たしか夏が似合うようなCM(キウィフルーツなど)によく出ていた。

 なぜかわたしの頭の中に、ときおり小田和正の「キラキラ」が流れてきて、そのとき思い出すのはヒロインの深津絵里でも相手役の堤真一でもなくて、なぜか坂口憲二だった。

 最近はどうしているのかと検索したら、コーヒーの焙煎士をなさっているとのこと。Instagramでお写真を発見。

 焙煎の道でも成功されている様子だが、またいつか役者さんをなさることは、あるのだろうか。あると信じたい。
 その日を楽しみにしている。

U-NEXTに、まさかの「女必殺拳」

 千葉真一作品をU-NEXTで検索したら、その中に志穂美悦子の「女必殺拳」があってびっくり。あとで見てみよう。あれで志穂美悦子は一気にスターとなった。女性のアクションスターがほぼ存在していないころに、あの存在感は強烈だったと思う。



 U-NEXTは探し方がいまひとつわからなくて、これまで一部の作品しか見てこなかったのだが、出演の俳優をたどるなどすれば、掘り出し物が見つけられるようだ。

 いっぽう、ずっと愛用してきているNetflixは外国語の作品が豊富で、あまり知らない言語を字幕で楽しむことができるのがうれしい。関連ありそうな作品をどんどんとリンクで表示させてくれるので、ただなんとなく何かが見たいという気分のときは、自分で探す手間が省ける。

変わりゆく言葉(breakthrough / cluster)

 breakthrough(ブレイクスルー)は、行き詰まっていた状況をうまく打破して次へ進むという、突破口を開くというよい意味だった。いや、「だった」ではなくて現在形であり、現在も英英辞書などにはそう書かれている。

 だが、昨今の用例でブレイクスルー感染(ワクチン接種後2週間以上を経て検査で陽性が判明する)の印象が強すぎて、もともとの英語になじみがなかった人にとっては、おそらくは印象の悪い言葉になりつつあるのではないだろうか。

 どちらの場合も、もう行き詰まりだと思っていた(打破できないという焦り)、もう壁を作ったと思っていた(だから安心という油断)という状況で、誰か/何かがわずかな隙間を突き抜けて反対側に出るという意味であるから、突破する側の存在にしてみれば、それは偉業なのだ。

 そういえば、2019年よりも前にネットで「○○クラスタ」といえば、○○する人々、○○愛好家のような集団として、使われていたと思う。この1年半で世の中はすっかり変わり、クラスタ(cluster)といえば新型コロナの用例であふれてしまった。それまでの方々が使うのをやめたということはないだろうが、これから新たに使う人は減るかもしれない。もっとも、最後に長音を付けるかどうかで、クラスタとクラスターの棲み分けができるのだろうか。

訃報: 千葉真一さん

 大好きな役者さんだった。
 キーハンター、映画「柳生一族の陰謀」、テレビシリーズ「影の軍団」など、たくさん見たものだった。

 たしかわたしはキーハンターの本放送のころはまだ幼くて、最初の数年は見ていなかったはずだ。その時間に幼児が起きていてはいけないという理由だが、シリーズの後半くらいは、少しだけ見た記憶がある。番組は5年つづいたらしいので、そのころには夜の9時まで起きていてもよかったのか、あるいは人気番組だったためしょっちゅう再放送をしていたのだろうか。

(1968年から73年までが本放送だったようなので、おそらくは親の目を盗んで、年上のキョウダイたちと見ていたのだろう。幼少時の思い出は、とにかく「9時だからもう寝なさい」だった)

 キーハンターは、とにかくかっこよかった。オープニングで車の追跡を振り切るように走る千葉真一が、ずっと印象に残っている。チームにいた女性(野際陽子、大川栄子の両氏)もまた、輝いていた。世の中で実際に女性警察官が活躍するようになったのは(交通案内やミニパトなどの業務を除き、身体的にも訓練をして捜査員として働くようになったのは)、もっとあとの時代だったはずだ。テレビの中では女性活躍の世界観が広がりつつあった。

 まだ82歳でいらしたとのこと。残念すぎる。
 千葉真一さんのご冥福をお祈りします。

魚醤と、魚醤油(うおしょうゆ)

 英語版のWikipediaで醤油の欄に、関連事項としてアルファベットで「うおしょうゆ」と書いてあった。かなり驚いた。魚醤(ぎょしょう)はあるが魚醤油(うおしょうゆ)とは呼ばないと考えたのだ。だが日本語版Wikipediaでは、魚醤の欄に「魚醤油(うおしょうゆ)、塩汁(しょっつる)とも呼ばれる」と書いてあった。
 知り合いが目の前でしゃべったり書いたりしたものならば、うっかりとその直後に「正しくは魚醤(ぎょしょう)だよ」と口走ってしまっていたかもしれないが、知らない人であったおかげでこうして調べることができたし、思いがけず魚醤の欄を読むきっかけにもなった。

 だがこれがまったくの知らない人ではなく、知り合いの知り合いであるとか、知り合いがいる場所での誰かの読み間違いであると、どうしたものかと頭をかかえてしまうことがある。

 だいぶ前だが、知り合い(アメリカ人)と大勢で参加していた英語の掲示板で、戸主(こしゅ)をアルファベットでわざわざ Toshu と読み間違いしつつ解説している人がいた。それも何度も書いたので、打ち間違いではなく本気で読み間違えていたようだ。
 個人的に知らない人であり、メールアドレスなど連絡の代替手段もなかった。コメントを追加するには、掲示板上でその読みの違いもセットで指摘せねばならなくなる。それがおっくうで、読むのをやめてしまった。

 読み間違いはあっても日本の家制度には詳しい人であり、それだけの知識があるところで読み間違いを指摘されれば、おそらくは怒ってしまうことだろう、と。
 日本語を少し理解するアメリカの知人ら本人に対しても気を遣うのに、赤の他人に「Koshuですよ」などと書くリスクを負うほどには、当時のわたしは度胸がなかったのだ。

 わたしも、偉そうなことばかり書ける立場ではない。
 もう25年くらい前だが、うっかりしたミスに気づくことがないまま、ひとさまに文章を出してしまったことがある。似たスペルだが意味は違う単語を、せっせとそのまま「この単語表でやろうと思っています」と、表まで提出したのだ。先方が驚いたのは書くまでもない。
 返事の文章からは「こいつってこの程度を読み間違えるのか」的な衝撃波が、隠そうとはしていたのだろうがその甲斐なく、こちらの目に突き刺さってきた。いまにして思えば、そんなうっかりミスにも気づかない程度の熱意しか持っていないわたしに、先方はあきれたのだろう。もう少しできる人間だと思ってもらっていたということだ。

 その方とは、それが原因ではないのだが、すっかり疎遠になって久しい。

 何歳になっても謙虚に、新しいことを学び、吸収していける人間でありたいと、無難な終わり方で今日の記事を終了。