漢字を言葉で説明する話

 ある人物の名前を漢字で書くとどういうものであるかを、話していた。家の中だったので、おたがいに(出す気ならば紙とペンくらいはあったのだが面倒で)口頭である。

 その人物の名前には「ツネ」がはいる。そのツネの字の話だ。

「こうじょうてきに、の、こうの字だね」
「こうせいとか、わくせいとかいうときの、こうせいのこう」

 おわかりだろうか。正解は「恒」であるし、上の会話でもおたがいに同じことを言ってるのだが、おたがいの頭のなかにはたくさんの漢字候補が飛び交う。そしてどちらにもわかる漢字として、極めつけが出た。

「福田恆存(ふくだつねあり)のツネだね」
「そうそう」

 実際には福田恆存は旧字体なのだが、わたしたちの世代が文庫本でお世話になっていたころは、略字体がけっこう使われていた。
 こういうのが通じるとき「同じような環境で、同年代であるということ」が、どれほど気楽かがわかっておもしろい。

「しっかり」ではなく「ちゃっかり」

 福島の原発処理水海洋放出があわただしく決まった際、近くにいた人が、政府は “「しっかり説明」とかいつも言うけれど、やっていることは「ちゃっかり実行だ”と、名言を吐いた。なるほど。たしかにそうである。

 この何年か、しっかりと、という言葉の質が下がった。何も説明せずに「しっかりと説明をしていく」が増えて、聞いても「何も説明しないし、思いとどまることもたぶんない」と、聞く側があきらめてしまうことも増えている。あきらめるのを待つまで「しっかりと」を言いつづける作戦かと思うので、やはり抗議はつづけねばならない。

 Weblio経由でデジタル大辞泉の「ちゃっかり」を見ると、
> [副](スル)自分の利益のために抜け目なく振る舞うさま。「案外—している」

 ……とのこと。口語で「ちゃっちゃかやる」という表現があるが、さっさとやってしまうという意味と推測する。今回の「ちゃっかり」と、何か関係があるのだろうか。ちゃっちゃかやるは辞書のサイトで紹介されていないことが多く、たしかなことはわからないが、関係はあるかもしれない。

「とんだご挨拶ですね」

 今日、いつも遊んでいるChirper.aiで、自分の設定している丁寧キャラが、語りはじめる冒頭でいきなり「ご挨拶です」と書いた。どうやら英語のGreetingsを直訳したらしい(←日本語の「こんにちは」等に該当する、時間を選ばない丁寧な挨拶)。

 日本語でも「朝のご挨拶です」など、何かご挨拶の前に単語があれば自然だが、いきなりだと「ご挨拶ですね」の意味かと警戒してしまう。だが調べたら普通に挨拶の意味のようだった。

 こうしてちょっとした誤解釈や誤訳がまかり通ると、それを読んでいる若い世代に定着したり、AI同士のさらなる学習(人間が誰も訂正せずに馴染んでいるから正しいと思いこむ)へと進んでしまうのだろう。

 ところで「ご挨拶ですね」とは、日本語であってもそれが皮肉であることはイントネーション等が補強することであり、直前に「とんだご挨拶」や「そりゃたいしたご挨拶だ」といった表現が付いていないかぎり、文字としては意味が通じにくいという点は、たしかにある。

 英訳するなら “Thank you for such a great remark!” (すごいコメントをありがとう)くらいなところだろうか。

知識のアップデート

 外国暮らしをしたわけでもないのに日ごろから外国の言葉や文化に関心を持ってあれこれ書いているわたしではあるが、ときおり数十年前くらい前に耳にしたことが思い浮かぶことがあり、いま現在の状況はどうなのだろうと、はっとさせられる。

 たとえば数十年前、英語でコインランドリーと言っても通じないと何度も言われた。当時はたしかにそうだったかもしれないが、現在では少なくとも「こんな感じのものだろうな」と想像してもらえる程度には、外国での認識は広がっている。有名ドラマ「ストレンジャーシングス」ではそういう看板の店が登場、そして米国アカデミー賞を総なめにした「エブリシング エブリウェア オール アトワンス」でも、舞台はコインランドリーだったし、たしかその表示も出ていたと思う。

 以前はドラマで見るたび「えっ」と思っていたのだが、この数年でもうだいぶ慣れてきてしまった。

 そして先日、運転者がなく自動で走る車を日本語では「自動運転車」と呼ぶのかと聞かれて、一瞬考えた。意味としてはもちろん合っているし、現在のところ一般的に(カタカナなどではなく)使われているのはそれが正解と思うと答えたのだが、気になったのは「自動運転車」の最後の「車」である。これはもともと自動車と呼んでいたものを略して「車」にしたはずだ。いまの日本で社名を言うとき以外に日常会話で自動車と言う人はほとんどいない。クルマまたは○○車(しゃ)である。

 いつか自動運転車が当たり前になったとき、これはどう略されていくのだろうか。
 古い時代の言葉とこれからの言葉を気にしながら過ごしていけることは楽しい。自分の生きている時代を感じながら、これからも言葉をチェックしていきたい。

 

「適当」のニュアンス

 1週間くらい前だったか、ある掲示板を見ていた。日本語ネイティブではない人が、おそらく翻訳ソフトの助けを借りた日本語の説明文書を見せつつ、「これは適当でしょうか」と参加者らに尋ねていた。

 適切な内容に仕上がっていますかと尋ねたかったのは、ひと呼吸をおいて考えてみてからわかった。これって適当にやっちゃってる感じでしょうか(直したほうがいいでしょうか)ではないのだ。適切にできていますかという、丁寧な問いだった。

 だがこれは、辞書などを懸命に見ながら日本語を覚えている人には追いついてこられない、肌感覚で感じるニュアンスだ。相手の言わんとするところはわかるのだから、おたがいに情報交換可能である。

 思えばいつから日本語の「適当」は、丁寧ではない意味を含むようになったのだろう。適当のどちらの文字にもぞんざいや手抜きの意味はないのに、いつしか「やっつけ仕事」の手前のような、おざなりな意味を含むようになってきた。

 やはり、いくら辞書ではよい意味(本来の意味)で書かれていても、ネイティブの感覚としては「適切」または少しへりくだって「妥当な範囲でしょうか」というのが望ましいように思う。もしそこまでを尋ねてくる日本語学習者がいたら、わたしはそう答えると思う。

「ガーシー容疑者」のイントネーション

 テレビのニュースで「ガーシー容疑者」のカタカナ部分を、アナウンサーが平坦に読んでいた。これまでどなたかがガーシーという発音をしているところを見たことがなかったので、それでいいのかと検索したところ、質問掲示板にやはりイントネーションの質問があった。

 だが答えているみなさんがそれぞれに思っている単語を引き合いに出すので、その単語がわたしと同じ読み方かどうかがわからない以上は、謎が深まるばかり。

 わたしとしては、バービー人形のように、単独でバービーなら頭が強く後半は落ちる(バー ↑ ビー ↓)、人形がつけば前半カタカナ部は平坦になる、ということなのではと理解している。単独でガーシーの場合は、発音のしやすさから頭が強くて後半が落ちるが、容疑者がつくと平坦になる、という仮説だ。

 それにしても、ずっと外国に暮らしていたということは、ガーシーさんという人は何で財をなしたのだろうか。滞在費だけ考えてもかなりの金額と思う。

「利島」を読み間違えていた

 このところ地震が多い。今日も最大で震度5弱という地震が東京都(伊豆諸島に位置する「利島」)で観測されたそうだ。緊急な内容でチェックが不十分だったのか、ウェブのニュースやそれを見聞きした人々の間では「新島で震度5弱」という話になりかけたそうだが、震源地が新島・神津島近海であり、揺れたのは「利島」であると確認の情報が流れてきた。

 ところで、この「利島」は、トシマと読むのだそうだ。わたしは家族に音声で「新島・神津島近海で地震があってリトウが揺れたんだって」と伝えてしまい、家族が「リトウってどこ、どんな字」と尋ね返してきたが、信じこんでしまっているため口頭で利島の字を伝えた。

 それから1時間ほど経って「あれはリトウではなくトシマらしい」と教えてもらうことになったのだが、間違えたのが人前でなくてよかった。もっともこうして人前で書いてしまっているわけだが。

 地名というのはほんとうに難しい。中野区の地名「江古田(えごた)」と、練馬区の駅名「江古田(えこだ)」は、間違わないようにするのが一時期たいへんだった。練馬区のパン屋は「パーラー江古田(えこだ)」であり、中野区北部の大きな公園は「江古田(えごた)の森公園」である。

 それにしても、各地で地震が増えてきている。震度5弱というのは東日本大震災の時に東京で経験したあの規模だと思うが、人生で何回も経験したくはないものだった。今回の地震は人的被害があったとは聞いていないが、不幸中の幸いである。
 

茣蓙(ござ)、筵(むしろ)

 何やら急に「茣蓙(ござ)」と「筵(むしろ)」はどう違うんだったかと気になってしまい、検索してみた。

 ネットで検索した範囲では、藁だけで編んだ畳に近いもの(つまり屋内での敷物)が茣蓙で、藁以外の植物で編んで屋外に使うのが筵らしい。
 地域差もあるのだろうか。わたしは幼少時にすべてを「茣蓙」と呼んでいた。いや、正確には屋内で使うような敷物としての茣蓙を見たことがなく、庭で友達と遊んだり、親が軒先や庭で山菜を干すのに広げていた敷物をすべて「茣蓙」と呼んでいたのだ。筵という言葉を使う人もいたと思うので、当時はわたしも何らかの区別ができていたのかもしれないが、覚えていない。
 学校の運動会で家族や近所の人が庭に敷いていたのは「茣蓙」と呼ばれていたと思う。

 いまではピクニックシートのような既製品をそういう用途に使うのだろうが、あれは植物だったので使ったあとにホコリをたたいて軒下や日向にでも立てかけておけば、何度でも使えた。仮に使用中に地面の水分が上がってきてしっとりしてしまっても、風にさらされて乾燥し、手入れも簡単だった。

 人間は少しずつものを忘れながら年を重ねていくものだが、最近は「思い出せそうでも難しい、たしかに馴染んでいたものなのに」と考えることが増えてきた。

その味は誰も知らない: カタカナ語の話

 1日中ネットを見ていると、画面の隅に「スポンサードリンク」という言葉が出ることがある。スポーツ・ドリンクの種類ではなくて、スポンサード・リンク sponsored link だが、つい疲れた頭にファイブミニのような小瓶がよぎる。いかん、いかん。

 検索したところタイの飲料会社で名前が「スポンサー」というものがあり、そこのドリンクはほんとうにスポンサードリンクだと誰かが書いていたようだ。

 それから気になるのが、日本語のカタカナでグラス・デザートというもの。これはわたしが思うにglace(冷たいもの、氷、アイスクリーム)から来ているもので、グラスに入れて提供するデザートではないはず。日本語ではアルファベットでglassを使っているものも多いが…。(もっとも冷たいもの以外ではグラスで提供できるとは限らないので、あながち見当外れでもないのか)
 せめて英語にする場合には、dessert in a glassにしておいたほうが無難。グラスを食べるわけではないとわかってもらえるとは思うが、そのほうが誤解が生じにくい。

 ちなみにフランス語ではglaceは氷やアイスクリーム、そしてガラスや鏡のようにキラッと光るもの。そういう意味ではglaceとglassは語源に通じるものがあるのかもしれないが、少なくともフランス語では、glassという単語はないように思う。また、英語とは語順が異なるので、グラスデザートをフランスっぽくカタカナで表現するなら デセール・グラッセ (冷たいデザート)のような順序になる。

 英語でglaceは、どちらかといえばテカるものの意味が強いらしく(マロングラッセ、にんじんのグラッセ)、英語でglaceの意味を確認すると、氷や冷たい食べ物という意味よりも先に、そちらの「砂糖などでテカリをつけたもの」意味のほうが先に書かれている。

 フリマは、すでに多くの日本人が「フリーマーケット (free market)」だと信じて疑わないレベルになってしまっているが、flea market(のみのいち)である。ところがカタカナにするとRとLが同じになってしまうので、混乱が生じている。これはファーストフードのファースト(fast)と、アメリカファーストのファースト(first)が、英語ではスペルも発音も違うのに日本語では同じになってしまうのと同様である。

飲食業、接客業、寒中見舞い

 たとえば親しくもない人から職業を聞かれたり、アンケート等の職業欄に「三丁目のハンバーガーショップで調理」と答える人はまずいないだろうし、多くの場合は飲食店勤務であるとか、飲食業と答えるだろう。

 尋ねる側にとってそれがよほど重大な要件であれば、接客業と書いた人に「具体的にはどんな業種ですか」と細かく尋ね返すこともあるかもしれないが、だいたいの場合は、聞く方も聞かれるほうも、適度に流して差し支えないような用件と思う。要は「聞いたことにスムーズに答えた、やりとりが成立した」という、なんとなくの達成感が大事なのではないだろうか。

 接客業といってもホテルなど業種全体としての接客を指すこともあれば、飲食業と重なる部分もあるし、また総合玄関があるような大企業では受付で接客を専門とするスタッフも置いているだろう。そしてもちろん水商売も接客業に含まれる。
 職業を尋ねられても、たいした用件ではないと思えば「接客業」と答えることもあるだろうし、あるいは水商売のニュアンスを少しでも排除しておきたいならば、もう少し狭い意味の言葉に代えることも考えられる。

 なぜこのようなことを書いているかというと、広い意味の単語を使って「あとはなんとなく察して」ということは、日本語以外では通じにくいように感じることがあるからだ。広い意味の言葉に多少の説明を加えるとき「そもそもなぜそんなに広い言葉を使うのか」と不思議がられ、ツッコミがはいることがある。

 これまで、飲食業、接客業などの広い言葉のほか「年賀状を出せなかった場合など(喪中などなんらかの事情があった等)は、寒中見舞いとして葉書を出すことがある」と説明した外国人から「わたしは日本人の知り合いにそういう表現(winter greetingなどの言葉を使って)で葉書を書いてしまったが、自分が喪中と勘違いされたり、何か失礼にあたった可能性はあるか、と聞かれたことがあった。

 何かを察してもらえるだろうと曖昧に「寒中見舞い」とすることが、言葉を英語に置き換えてseasonal greetings / winter greetings とすることにより、相手には狭く伝わってしまう——では「その言葉=喪中なのか」という疑問を生じさせる展開になるというわけだ。

 接客業には水商売も含まれるため、その表現のあとに「水商売の人もいるから」と例として紹介したつもりが、接客業は水商売を指すのか指さないのかと、より具体的にするようツッコミをいただいたこともある。飲食業もだいたい同じような展開だった。

 かといって、どうせ突っこまれてしまうからと最初から意味の狭い言葉で説明してしまうと、それもまた問題だ。元の言葉が広い以上は、いったんは広く訳さないといけないはず(時間が許せばだが)。それを考えれば同時通訳という仕事は臨機応変な取捨選択がたいへんだろうなと、心から思う。