さほど昔ではないのに、古さを感じる言葉

 先日あるブログを読んでいた。その中で、英語と日本語で「待ち受け画面」について書いていたのだが…いや、う〜ん、待ち受けというのは、ガラケー時代の言葉ではないだろうか。かといってスマホ風に何と呼ぶのか、とっさに出てこない。しばらく考えてみたが、iPhoneならばロック画面か? ほかにも何かありそうな気がするが、出てこない。

 そういえばスマホで写真を撮影することを「写メする」という人も、まだそこそこの数いらっしゃるようだ。これもガラケー時代の言葉。写メールという言葉があって、その略だったと思う。

 時代としてはガラケーと同じくらいの古さだが、おそらく現在は通じないのではと思うのが、ソフトウェアを「インストする」、「レジストする」だ。とくにインストするは、検索の上位に出たのはインストゥルメンタルだった。

 とりとめもなく書いているが、こうしたものはいずれも、日本国内にいても使用する立場や年齢で古いかどうかの温度差があるものだ。たとえば10年も外国に住んでいるとか、親が日本語ネイティブだが外国に生まれ育っているといった場合には、この微妙な感覚というのは、なかなか共有が困難なものかもしれない。

匂いを嗅ぐときの動詞「匂う」(方言)

 以前にデパートの物産展で宮崎の柚子加工品を見ていたとき、お店の人に話しかけたら「匂いはとくにないと思うけれど、蓋を開けて匂ってもいいですよ」と言われて、少し考えてしまった。おそらく匂いを嗅ぐという意味の言葉で「匂う」という動詞の用法がどこかの地方にあるのだろうと、その程度でさらっと忘れてしまった。

 ところが最近ネットで(とくに個人が発信しているようなTwitterやInstagramにおいて)普通に「匂う」と書く人に遭遇することも。ほとんどの人はなんとなく通じるだろうからわざわざ本人に言わないのだろうが、親しい人たちからも突っこまれないのかなとか、余計なことを考えてしまう。いや、親しい人たちも地元の友達なら、わざわざ言わないのか。

 90年代後半に、インターネットに日本の一般人らがホームページを持つようになったころのことだ。それまでは大学などの大きな施設以外は、一般人はネットにつながっていなかった。
 そのころ、多くの場合において人はホームページのトップに Sorry, (written in) Japanese only と書いていた。このページは日本語でだけ書かれていますよ、という意味だ。インターネットは世界中につながっているから、そう書いておかないと外国語で問い合わせなどのメールが来てしまうかもという「お約束」または作法のようなものだったのだろう。

 だがやがて時代がくだり「日本語だけだと書くのはいいけれど sorry まで書くのってどうなんだ」という人尾現れるようになり、少しずつ、個人サイトからそういった表記が減っていったように思う。

 あのころ、ネットは「世界につながっている」という認識の人が多かった。だが最近では登録しているサービスを通じて知り合いだけの閲覧制限が実現できるためか、家族や知人らとつながるためのライフライン的な意味合いでとらえている人のほうが多いのだろう。

 気になる言葉や方言が見つけられることもあり、たまたまこんな風に知らない人の投稿が流れてくるのを、楽しみに思うことがある。

名前を知らなかった「膿栓」

 うがいするときに喉の奥に何か「透明ゼリー」のようなものが感じられる日があり、3月にコロナをやったからなのか加齢なのか、とにかくうがいに関する情報を検索していたところ、膿栓という単語に出くわした。

 呼び名を知らなかったが、喉の奥に小さく溜まっている白い粒のようなもの、あれを「膿栓(のうせん)」というのだそうだ。へぇ…。知らなかった。なぜ検索にひっかかったかというと、うがいを丁寧にすることで、あれが排出しやすくなると書いている記事があったほか、喉の奥の違和感というとあれを連想する人が多いのだろうと思う。

 わたしの感じている違和感は、痰というほどでもなく、かといって「さらさら」でもない、なにかが喉の奥に詰まっているように感じるというもの。うがいと一緒に出せたかなと思って洗面台を見ても、なにかは出ているのだが透明で、こってりしたゼリー状のものだ。

 とくにコロナとは関係ないと思うし、うがいのとき以外は気がつかないので、いまのところ実害はない。

たかが「漢字」と思うなかれ

 デリケートな話題ではあるが、記しておきたい。ある俳優さんがお亡くなりになったとき、Twitterで「縊死」が読めない人たちのリプライを見た。

 最初は「これなんて読むんです」というリプライを見て、こういう話題なのに調べもせずに公の場でツイートを流すとはどういう神経なのかと思った程度だったが、その後の流れを見て、愕然とした。

 どうやら読めなかったうち一部の人は、それを一般的に自殺を連想させるものだと気づかず「何らかの理由(事故や病気など)で亡くなった」と勘違いしたらしい。その方々は、別の人たちから自殺の情報が流れてきたとき「え、自殺だったんですか、最初の発表では違ったのに」と考えたようで、混乱してしまった。わざわざ紛らわしい別の言葉で最初に発表したからには、何か事情があるのだろうかと、ざわついている人も見受けられた。

 事務所では、自殺や自死という表現を使わず、それでも人から死因を聞かれることがあるだろうから自分たちから発表してあとは事情を察してわかってもらおうという意図で、縊死という言葉を選んだのだろうとは思う。仮に「死亡」とだけ発表したら詮索があるのはわかっているから、苦渋の決断だったのだと。その表現が最善の選択だったかどうかはともかく、ある年代以上の人には、意図は通じたのではないだろうか。

 情報量が多く、伝達のスピードも速い現代の社会では、全員に正しく円滑な情報を届けることは不可能に近い。だが、若い世代が「自分たちの読めない漢字がある」ことを認識して謙虚になったり、伝える側が「少しでも誤解のないように」と、言葉を足して説明する工夫などがあれば、少しでもよい状況になるのではないかと考えている。

「日本には四季があります」という表現

 日本が外国への売り文句として観光情報などによく使う「日本には四季があります」だが、四季のない国はほとんどないのではないかと思われる。ただ、若いころに観光ガイド向け教本を使って英語を覚えてきた人間としては、かなりそれが染みついてしまっていた時期があり、以前はあまり疑問を持たなかった。
 近年になり「四季のない国のほうが少ないのだから、これを宣伝文句としていつまでも使うのは、かえって恥ずかしいのではないか」と思うようになった。

 最近とても気になるのが、日本の内部向けの表現だ。「日本/日本人特有」とか「日本ならでは」とか、ほんとうに外部と比較してそれを使っているのかどうか疑わしく、たんなる「自分たちはこうだ」という思いから発したのではないかと思われるものが多い。

 毎日新聞の最近の記事で、新型コロナへの考え方が変わってもマスクを外す方向になかなか話が進まないことに「日本特有」や「日本人固有」の事情があるとする意見を紹介したものがあった。ひとつを下にリンクしておく。→ 2022.05.01 欧米では着用見直しの動き 日本でマスクを外せる日はいつ?

 欧米に比べ、国内で議論が進まない背景について、大阪大大学院の平井啓准教授(健康心理学)は感染原因を巡る認識と日本人固有の心理が影響しているとする。平井准教授は「海外では感染原因について空気感染が主であるという認識が広まり、マスクの有無にかかわらずウイルス濃度が濃い場所に行けば感染するという意識に変わってきているようだ。だが日本では接触と飛沫(ひまつ)が主な原因とする従来の考え方のままで、感染対策への認識が変更されていない」と指摘する。さらに「日本人の心理として何かしておかないといけないという社会的な規範が広まっており、形式を整えておかないと規範を逸脱するという考え方がある」と分析する。

 つまり、平井准教授の言葉「日本人の心理として、何かしておかないといけないという社会的な規範が広まっており」を、毎日新聞が「日本人固有」という表現にして紹介しているわけだが、社会において規範あるいは何らかの傾向が広まることは、別に日本特有でも日本人固有でもない。どこに国にでも規範が広まることは考えられる。

 何気ないのか意図的なのかわからないが、こういう言葉の選択から、自分たちのいる環境と、これまた漠然とした「欧米」とを対比させて文章を書こうとする傾向が感じられ、それこそマスコミの陥りやすい「型にはめて記事を書く」作業に、新聞社そのものが慣れきってマンネリ化しているのではないかと感じる。

「よろしくと言っていました」

 実生活で「○○さんがよろしくと言っていました」と伝えてくる人が、少人数ではあるが、いらっしゃる。だがこれは場を和ますための言葉で、ほんとうにそう伝えてくれと言われたわけではない可能性がある(言っている本人ではないのでなんとも言えないが)。

 ときおり「あの人がわたしによろしくなんて言いそうにないな」と感じることがあり、そんなときは、そう伝えてきた人がわたしとその人とがそれほど親しくないと気づかずに、なんとなく言っているのだろうと想像できる。

 ただ、逆を考えてしまうと、なにやら落ちつかない。わたしが絶対に「○○さんによろしく」などと言わないのを相手が知っている状況であれば、ちょっと困るような気もするのだ。相手も「ほんとうは違う」と思ってくれていればよいのだが。

 わたしにとって、こちらから親しい関係をつづけたい、歩み寄りたいとか、つかず離れずの付き合いをしていきたいとかいう人は多くなく、去る者追わずであり、自分も忘れられてかまわないと思うことが多い。胸を張って書くのもどうかと思うが、わたしは友達が少ないのだ。そしてそれはこういう性格である以上は仕方がないと思っている。

 もしや、わたしのように人づきあいが少ない人は周囲がプッシュしてあげねばと、そんな思いから「○○さんがよろしくと言っていました」と、付け加えたくなる人もいるのだろうか。

 あれこれ考えてしまい、落ちつかない。

お陀仏と、お釈迦

 阿弥陀仏の略としての「陀仏」はありがたい存在だが、お陀仏といった具合に「お」が付くと、命がなくなる、または失敗品という意味になる。
 そして「釈迦」はありがたいが、やはり「お」が付いて「お釈迦」という言葉になると、同じように「だめになる」とか、使い物にならないという意味になる。

 このふたつは使われ方が似ているのだが、なぜか「お陀仏」は他動詞的に使えない。自動詞または名詞だ。「お陀仏にする」という表現がないためだ。

お釈迦、お陀仏(meme generatorで作成)

 お釈迦の語源はgoo辞書によると「阿弥陀を鋳るつもりが釈迦を鋳ってしまった」という話に由来するらしいのだが、もし逆をやってしまう例もあったならば、いまごろ両方が他動詞として使われていた可能性も、あったのかもしれない。

 とにかくわたしは、まだ「お陀仏にする」を聞いたことがない。

食料と食糧

 数十年前は、食糧という表現に遭遇する率が高かったように思うのだが、最近は「食料」が増えてきた。以前は食糧自給率と書いていなかっただろうか。

 検索してみると、こちらのサイトに → オールガイド: 「食料」と「食糧」の違い

 食料は食べるもの全般、食糧は主食を指すとあった。さらに…

政治的・経済的観点では、「食糧自給率」や「食糧問題」など、食用とする物全般を表す際にも「食糧」と表記することが多かったが、昔に比べて主食以外の比率が高くなったためか、最近は「食料」と表記することも多くなっている。

 とのことである。なるほど。

 さて、食料の自給について。

 外国からの輸入が多い日本だが、地方の農地は、近年になって後継者もなく荒れかけている場所も多いと聞く。いったん荒れてしまうと水田や畑にするのはたいへんであるとのことだ。外国から孤立する事情が生じるなど、いざというときに「いますぐ農業を」と頼んだところで、対応できる人も土地も限られてくる。

 政治や経済で近年さらに拍車がかかっている一極集中により、ほとんどの機能が東京(ほか大都市)に集まっているのも問題。
 ある程度の規模の都市を、地理的にも経済的にも分散して発展させていくべきと、ずっと何年も憂慮している。

「号泣」と「ダイエット」に辟易

 検索してみたところ、このふたつ「号泣」と「ダイエット」は、10年以上書いているこのブログで1回ずつしか登場していない。いずれも今回と同じ「誤用」の話だった。

 号泣は “感極まって、ぼろぼろ泣く” 意味ではない。「声を上げて泣く」ことである。衝撃や心の痛みにより、体の内側から突き上げるように声を上げて泣くことであって、けっして「家族からサプライズでプレゼントをもらい、号泣した」は、ないのである。

 個人がブログなどでそう書くことは別に問題ないし、目くじらを立てるつもりもない。だがその「個人」が、なかば公的な人、あるいは聡明で知られる著名人などの場合は、幻滅してしまうこともある。もちろんオンラインのメディアで固い部類のもの(たとえば一般の新聞)がこの「号泣」を使うのも、いらいらする。放っておいても誤解は定着していくであろうに、わざわざ影響力の高い存在がそれを使って、時期を早めることもないだろうと考えてしまう。

 ダイエットも、運動などを含めてあらゆる方法で「体重を減らす」ことだという誤解が深まり、ジョギングでダイエットなどという奇妙な表現がそこかしこに見られる。動詞ならば、適切な食事で体調を整えること(その結果として体重が減ることもある)が本来の意味、名詞ならば「食事療法」だ。もはや、雑誌はもちろん、ときおり一般紙でも「痩せる」として使っている。

 イライラするが、個人では抵抗できることではないので、こちらが慣れるしかないのだろう。

見出しの「助詞」が気になる

 文字数の関係で見出しを短くしたいのだろうが、おもにネット記事での「略し方」が気になる。

 意味 → (コンビニが) 春の新弁当を発売する / (コンビニから)春の新弁当が発売される
 ネット記事などで見る略し方 → (コンビニ名)春の新弁当が発売

 これが、気になるのだ。「を」にするか、あるいは「登場」にしてほしい。「が」で「発売」が、落ちつかない。