守りたいもの

 人生の半分はもう過ぎているので、いまさら知らない国に旅行に行きたいとか、旧古河庭園のような洋館に住みたいなどとは思わないわけだが、かといってまったく世の中に無関心というわけではない。

 ときおり商店街や商業施設を歩いて、美味しそうな大福でもあれば買いたいし、ケーキも選びたい。さらに本音を言うならば、にぎやかな都市部のデパートをぶらぶらして、めずらしい食材を買いたい。だが実際には、すぐ近くであるにも関わらず、新宿すらこの1年半で2回くらいしか出かけていない。

 もともとのライフスタイルの延長線上であるため、わたしのストレスは一般的な方々(毎日のように通勤、通学する方)よりは軽減されてきたのだろうが、さすがにこう長引くとつらい。

 国や都は不用意にお祭り騒ぎをしておきながら(昨年はGoTo、最近はオリンピック、まもなくパラリンピック)、そのたびに人の出が多いだのと文句を言う。そして今回は「自分の身を守れ」だそうだ(東京新聞2021.08.12 東京のコロナ「制御不能、自分の身は自分で守る段階」都モニタリング会議)。
 いまそれを言うのか。ずっとそうしてきたのだが、いままで何かしてくれていたというのだろうか。昨年前半はとくに、診察を受けるまで4日様子を見ろなど個人に我慢と苦労を強いた。そのあとで、まるで一般人のほうが解釈を曲げた(そこまで厳しく制限したつもりはなかった)と厚労省が発言した。さらに、何度もくり返してきた中途半端な制限——これは完全に何もかも制限しろという意味ではない。飲食、夜間に開店している店、酒を提供する店を制限するのに、ひとつひとつの理由をていねいに説明せず、一方的に「○○の業種だけ、部分だけ」を、締めつけてきたということだ。

 ステイホームだ、リモートワークだと簡単に言うが、都市部の住宅環境を考えれば、同居家族が別々の部屋で1台ずつパソコンを使うことができるだろうか。すぐに対応できる人の割合は低いはずだし、可能な人は実現している。もはや、頭打ちかもしれない。

 もっとやわらかく、小回りの利く発想で対応してもらいたい。

 いったん決めたことをやめないこの国の方針、決まった以上はと突き進む傾向には、うんざりしている。たとえば2020年のオリンピックを前に外国からの旅行客をさらに呼びたいと狙い、羽田空港の発着便を増やした。そのあおりで(さらには米軍が飛んでいる空域をよける必要があり)、都内の23区西部は午後から夕方まで上空に旅客機が飛ぶようになった。住宅街の真上である。かなりうるさい。

 昨年のオリンピックは1年延期となり、新型コロナの影響で外国から人はほとんど来ない時期もあった。だがいったん決めたことを国は変えない。便が減っているはずなのに住宅街上空で飛行機を飛ばしつづけてきた。これで、いつか便が増えていくとしたら、自分の味わってきた平穏な日常が崩れていくのだなという、むなしさがある。

 好きな時間に自由に近所を歩き、買い物ができて、上空はのどかでありつづけてもらいたいと願うことは、もう贅沢と見なされているのだろうか。