集中力と熱意が、すぐ電池切れ

 数年前までは「ウェブサイトの模様替えをしよう」と考えると、新しいシステムを入れたり、内容を書き換えたりと、2ヶ月くらいはそれにかかりきりにしていたし、その後もこまめに手を入れる日々が半年くらいはつづいた。

 だが新型コロナで調子が狂った2020年ころから、どうせ先はどうなるかわからないという思いもあったのかもしれないが、何かをするにも数日単位で作業が止まってしまう。そして何度も止まっているうちに「ま、いっか」と後まわしにしてしまうことが増えてきた。

 たとえば3月中旬ころ、数年ぶりに録音をしてみたいと思った。以前は自分の音声と動画との合成だったが、今度は音声でPodcastをやってみるのもいいなと、構想だけは練った。機材も最小限ながら以前のものが使えるし…と思いつつ、1日おきくらいに作業をしていたところ、見事に停滞。わたしの悪い癖だが、よけいなことを考えてしまうのだ。
 まずは原稿を用意してきれいな音声で録音をするのが先決なのに、合わせる音楽はどれにしようかとか、あとでもいいことを考えて調べてしまう。するとドツボにはまってネット検索の沼から帰ってこられなくなる。

 4月中旬ころにmikimarche.comのサイトをリニューアルしようと思っているが、それならばPodcastデビューはそれ以前にしておきたいと思いつつ、おそらくこのままだと、どちらも遅れそうだ。

 コロナ禍でやる気が失われたというのは言い訳にもならないが、あれでだいぶ出鼻をくじかれたのは事実だ。バウムクーヘンの情報サイトに力を入れよう、オフ会を増やそうと段取りを開始したのが2019年であったが、その翌年には集まりを自粛すべきという時期になっていた。
 そもそも2019年に「よっしゃ、何かやるぞ」と重い腰を上げたのが、その年の前半まで8年も同居していた認知症高齢者が施設にはいったからだ。長かった日々が終わったと、しばらく呆然として、「いや、このままぼーっとしていてはいけない、動かなければ、ずっと自分はぼんやりしてしまう」と、自分にやる気を出させるために決断したことだった。

 だがコロナ禍で、わたしは気分のメリハリがつかないまま、ずっとぼんやりしてきたような気もする。

 というわけで、Podcast計画と、サイトのリニューアルを考えていることだけは、ここに書いておくことにする。

 

バケットリスト(死ぬまでにやりたいこと)のバケットとは

 年齢を重ねても知らないことがたくさんあるものだと、つねづね考えている。たとえば(運転免許がないのだから当然だが)ガソリンスタンドの給油がわからないし、和装に親しんでいないのだから当然だが「急な葬式のとき和服はレンタルできるにしても着付けができない」と思う。さらに最近よく考えるのが「この先さらにスマホで何でもできるようになったとき、自分はついて行けるのか」である。現在はそこそこ使えているが、ちょっとした作業にはパソコンのほうが安心だ。

 さて、ひとつずつでも「これは死ぬまでに」と考えておくべき時期に、さしかかってきた。英語では bucket list (バケットリスト、つまりバケツのリスト)と言うが、そのbucketは何なのか検索したところ、 kick the bucket (バケツを蹴る)というのが、死ぬ意味だという。

 では「なぜバケツを蹴ると死ぬのか」と検索すると、英語のWikipediaによれば(Wikipedia: Kick the bucket)、諸説あるものの、豚を屠って梁から下げておくと、まだ命が少しある状態の豚が動きまわって梁を蹴る…ということに由来する説があるそうだ。そして梁は(イギリスのノーフォーク州の方言で)以前からbucketと呼ばれており、現在でもその意味で使われることがあるという。

 とりあえずわたしのバケットリストのうち、上の方に来そうなのは、何かひとつでもいいから「きちんと調べたまともな文章をかっこよく発表すること」だろうか。ブログばかり10年以上もやっているが、何らかの著作っぽいものを目指してみたい。

よく考えたら年度末だった

 3月末日の夕方から値上げになると聞いていた六花亭の菓子を注文した(←後日訂正: その日に値上がりするのは別の店で、六花亭はすでに値上げしていた)。到着は3月31日を選んでおいた。時間は「発送されたら自分で希望時間を入力しよう」と思っていたのだが…六花亭から聞いている伝票番号がまだクロネコのシステムに入力されていない。北海道からなので今日の段階ですでに反映されていなければおかしいはずだが…よく考えたら年度末だった。

 そしてわたしと同じように「少しでも安いなら3月のうちに」と、通販の注文が急増していることはじゅうぶんに考えられる。配達の方々には申し訳ないことをしてしまったが、日持ちしない菓子も含まれているので、なんとか当日に到着してもらえればありがたい。

 今月は家族が押し入れの片付けをまとめておこなっていて、この10年以上(おそらく20年くらい)で溜まった古いコンピュータ関連機器も、業者に出したようだ。最近のものであればひきとりは無料ということで、せっせとあれこれを梱包しては呼んでいる。

 ところがしょっちゅう呼んでいるせいか、ふと「このあいだ佐川のドライバーということで荷物を預けた人が、今日はヨ○バシの荷物を配達に来た」と、ちょっとしたことに気づいてしまったようだ。そうだよな、それぞれの運送会社がお抱えのドライバーをたくさん用意していられるご時世ではない。おそらく食品のデリバリーと同じで、手が空いている人がどこの業者のものでも「呼ばれたら配達する、集荷する」という仕組みが、できているのだろう。

 ドライバーさんたちには、ほんとうにお世話になっている。とってつけたようで恐縮だが、不在票を置かれることはめったにないくらいに努力しているので、これからも配達をよろしくお願いしたい。

マイナンバーカード包囲網

 マイナンバーカードは2年前の春に申請して4月か5月くらいから所持しているが、この2年で使ったことは、1回くらいだったように思う。

 先日ソニー銀行の口座を開設しようと思い、マイナンバーカードを指定された2方向から撮影し、つづいて自分の顔をその場で(指示された縮尺で画面を移動させながら)撮影して、撮影済みではなくその場での撮影と認めてもらったところ、まもなく口座が開設され、デビットカード付きのキャッシュカードが送られてきた。

 ほかには、なにかで使っただろうか…。

 実はマイナンバーカードを取得した年に、それを入れたままの財布を落として1時間以内に交番に出かけたことがある。ところがマイナンバーカードに写真が添付してあっても、警察官もわたしもその写真とわたしを照合するという発想がなかった。

 警察官「自分の証明が(本人とわかればこれから返却する)財布にはいっているわけだから、ほかに証明がないですよね、どうやって証明…ま、いっかな〜落としてすぐだし、話も合っていて、申告してもらった中味も同じだし」
 …と返してもらったのだが、帰宅途中で「マスクを取って顔を見せればよかったのか」と気づいた。それくらい、意識としてあれは身分証明とは遠いものだった。取っておかないと何か不都合がありそうな予感が少しずつ芽生えていたのだが、その心配は約2年でとんでもなく重いものになってきている。

 もともとは、運転免許証を持っていないことで、わたしには「身分証明書」がないという焦りがあった。さらに何でもかんでも写真付き身分証明書をという話が聞かれるようになってきていた。これから高齢者に近づくのにいまさら運転免許は持てないし、府中のほうまで朝から出かけて試験を受けるのもたいへんである。どうしよう、どうしようと思ううち、マイナンバーカードを選ぶしかなかったのだ。

 だが、健康保険証まで廃止してマイナンバーカードに一本化するという話が出てくると、自分の決断で早めにマイナンバーカードを作ったわたしよりも、さらに困る人がたくさん出てくる。

 たとえば施設に入居している義母は、自分の名前すら言えるかどうかわからない、いつもうつろな目でぼんやりと日々を過ごしている状態だ。そんな人に、仮に写真撮影をしてマイナンバーカードを持てと手配を代行した場合でも、自分で所持や管理ができるはずもない。そして施設に預けるのは施設でも困るらしいので、作成しても置いておく場所がない。2024年秋以降に健康保険証が廃止になってマイナンバーカードに一本化されるのであれば、急な体調変化で医療機関のお世話になるのも、一苦労である。

 無事に機能している保険証を、何のために取り上げるのだろうか。
 マイナンバーカードの広範囲活用の流れを止めることはできないのかもしれないが、健康保険証だけでも、残してほしい。

ChatGPTが、進化してきた

 ときどき話しかけているChatGPTだが、回答に明らかな間違いらしきものが減ってきた。「正しそうに感じるがいちおう調べてみようか」と思う程度の、微妙な内容が増えてきたのだ。調べずに信じることはChatGPTに限らず相手が誰であれ危険だが、雰囲気としてはすんなり読めそうなものを瞬時に出してくるので、感心してしまう。

 ところで先日「何カ国語ができるのか」と英語で尋ねた。そつのない答えがあったので「読み書きだけでなく口頭でも発話できるの」とたたみかけると、すぐさま返事があったというのに、その直後わたしが Thank you for your time. (お時間ありがとう)と書いた途端に、止まった。
 挨拶の文面を用意するのに数秒以上もの空白があったのには、ちょっと笑ってしまったが、挨拶は難しいということか。

 それから、次回は実験してみたいのだが、何カ国語かを文中に混ぜたら、どう返事してくるのだろう。あるいは英語で尋ねて次の応答を日本語にして、別の言語へと混ぜていくのも、おもしろいかもしれない。

「高円寺放送」は、いつまで放送していた?

 マクドナルドも高架下の改築で閉店するし、かつて「エンジー商店街」と呼ばれた、阿佐ヶ谷方向へ向かう高架下の商店街もなくなり(3/31からは、しゃれた名前で復活するらしい)、あの薄暗さって昔の高円寺っぽさを象徴していたよなぁと、しみじみ思い出す。

 ところで「高円寺放送」は、いつまで商店街に流れていたのだろう。

 2009年の当ブログに高円寺放送のことが書いてあったので、そのころまではまだ聞かれていたようである。

高円寺放送と、バーボンハウス休業・移転

 知らない方のために書くと、「東京宝石」、「麻雀倶楽部ピンホー」、そのあと時代は少し遅れて「バーボンハウス」などがくり返し何度も、音声のCMとして大音量で流れてきたものだった。東京宝石は歌だったが、ピンホーやバーボンハウスは中高年女性の大まじめなしゃべりで、クスッと笑わずにはいられなかった。

 あれは、いったいいつまで放送していたのだろう。終わりに気づかないまま、聞こえなくなっていた。
 高円寺の北でも南でも、そして西方向(仲通り商店街)でも、どこでも流れていた。

 宣伝メディアとして古いかどうかという「あり方」だけでなく、場を共有する大勢が同じものを何度でも聞くことを許容できるかどうかの問題も含めて、時代が変わったのだろう。

春眠暁を覚えずと言うが

 この1週間ほど、暁を覚えずどころか…寝られない(もしくは眠りが浅くてろくな夢を見ない)日がつづいている。ちょっとした物音や刺激で目が覚めたり、地震の予兆もないのに、何らかの音で地震が来ると身構えたり。

 本人はかなり気になってしまうのだが、ネットで昔の投稿を見ていると、毎年この季節は不安定のようだ。数年前は自分が階段を上がってやってくる夢を見たようだった。つまりこれが平常運転でということなのか。

 真夏は寝られない日が多く、早朝にゴミを出したあとで昼間に短時間ずつ寝る。2年ほど前からこれはかなり深刻で、ヤクルト1000を飲んだり、去年の秋からは漢方も飲みはじめた。今年はどうなることだろうか。漢方飲みまくりになるのか…?

なんだこれは…ベルギー映画「ノイズ・ウィズイン」

 昨日のことである。Netflixでおもしろい作品はないかと探していた。長さが1時間半だというし、フラマン語(フレミッシュ語)は知らないので、きっと字幕を見ながら聞くのが楽しいだろうと、なんとなく見てしまったのがベルギー映画「ノイズ・ウィズイン」。原題は Noise のみ。

 45分ずつ2回に分けて見たのだが、前半は「この先がどういう映画になるのか」と、たとえばホラーなのか、登場人物の心の病なのか、まったく別の展開になるのかといった具合に、楽しみに見ることができた。用事を終えて夜に後半を見ていると…

 …終わった。
 え、ここで終わりか? わたしは何か見落としていたのか、ストーリーの重要部分とか?
 …しばらく考えてみたが、わからない。

 数分考えて…何やらとてつもなく、わからない。伏線のようなものは回収されていないし、そもそも伏線の張り方も中途半端。

 おすすめしない映画であるが、わけわからない気分になりたければ、ぜひどうぞ。

=== いちおう、あらすじ ===
 主人公男性の母が、家(広い屋敷)の前にある大きな沼のようなところで死んだらしい描写で話ははじまる。その後すぐに「時は流れて〜」といった具合で、主人公が成年後に恋人と、そのあいだに生まれたばかりの乳幼児を連れてその広い家にもどってきたところから、ふたたび話が流れはじめる。
 主人公の父親は界隈の入居型施設で暮らしていて、認知症があるのでたまに歩いて家に来てしまうが、体のほうの病気はなさそうである。主人公の職業はなんと「インフルエンサー」で、ネットに何かを載せるたびにスポンサー契約がついたりして、生活用品を送ってもらえたりもする。
 結婚はしていないらしい恋人の女性は、(田舎に引っ越してしまったものの)食べ物のケータリングをしたいと考えており、つねにキッチンで仕事の案を巡らしている。

 主人公は、自宅すぐにある広大な工場跡(かつて父親が所有)について、調べることにする。何かきなくさい事件があったようだが、当時は幼かったので自分が知らないことが多すぎた。それを調べ直すことで、フォロワーの興味をかきたてると同時に、父親との心の交流を持とうとする。
 いっぽう主人公の同居女性は、地元の人たちに受けいれられないことに戸惑いを覚えていた。中には露骨に嫌うような態度を取る人もいるが、なんとか少しずつでも地元に溶けこもうとしていく。

 工場の秘密について調べているうち、主人公の奇行が、その度を増す。同居女性の弟もかなり心配して訪ねてくるほどの壊れっぷりである。
=== あらすじ終了 ===

 …で。

 これほどぽかんとさせられたのは、How It Ends と同じくらいと思ったら、やはりその件もこのブログに書いていた。

“How It Ends” ほか、パニック映画

 今回の映画が、もし、作品のどこか途中から主人公の心の世界にでも飛んでしまったのでないかぎり、平穏なシーンで終わることは考えられない。この主人公カップルに、落ちついた日々がもどるとはとても思えない。少なくとも言いたいのは「なぁ、ねーちゃん(同居女性)、弟のことを考えたら、のんきにしていられないだろ」である。

 いや〜。なんだったんだろ。

戦地を訪れ「しゃもじ」を渡す

 あまりのことに、目の前に何が書かれているのか理解するのに時間がかかった。誰かがテレビで発したネタがTwitterで話題になっているのかと思ったほどだ——。日本の首相がウクライナのゼレンスキー大統領に、広島県のしゃもじに「必勝」と書いて持っていった件である。

 しゃもじを渡すなとか、どうせなら○○を持っていけとか、そういう発想すら浮かばないほどに、わたしはしばらく呆然としていた。おそらく「何かを持っていく」という行為、あるいは手土産を考えに考える人がいるというのが、わたしには想像の範囲外だったのだろう。

 たとえば甚大な災害の現場で物資や労力を提供する、あるいは政情不安で治安が大きく悪化している場所を訪れ情報を交換するのに、手土産のことを考える人はまずいない。相手がそれを見てどう思うかを考えたら、ましてや民芸品は出せない。

 これは、首相が図らずも連発してきた「異次元」の発想ではないだろうか。

中野通の桜 (2023)

 快晴ではなかったのが残念だが明日から雨ということで、今日は最適な花見かと、中野通に出かけて見た。

 写真を撮りながら逆光が多かったため撮影時にはきちんと構図にはいっているかどうかもわからないままだったが、新井薬師前の駅から中野通を南下して、四季の森公園まで。途中で「レザネフォール中野」と、「ヨークフーズwithザ・ガーデン自由が丘」にも寄る。
 
中野通の桜 2023

 桜はこのところ数年連続して中野通の散歩なのだが、撮影する場所もだいたい「ここは立ち止まりやすい」とか、「今がチャンス」と感じる場所が同じになり、定点観測のようでおもしろい。この写真には入れなかったが、新井五差路にある桜が、脇の民家がビルに建て替えられていて、ちょっとびっくりした。工事中なのは知っていたが、以前とはだいぶ趣が異なる。

 本日現在のビル。その前にあるのが桜の木。季節にはけっこう目立つ。
 (ストリートビューの時間を1〜2年巻き戻すと、民家が現れる)

 来年も、桜はまた中野通かもしれない。楽しみにしている。