人間というのは、ちょっとしたことで何かを感じとり、意識の上っ面のほうではそれを理解していなくても、内部で記憶にとどめておいて、何かを考えていることがあるのかもしれないと思う。
わたしはよく、楽しくない夢を見る。たいていの場合は「あの部分はこれの影響かな」と、わかる場合もあるのだが、昨日は目覚めてから数時間、意味がわからなかった。だがそれは現実のこととなって、ああ、自分は何かの気配を感じとっていたのかなと、あとにして思った。
さらっと説明しておくと、昨日とても楽しみにしていたものがあったのだが、夢では「手元に来て眺めているうちに、それが違うものに変わってしまった」というものだ。一般には一概にどうとはいえないかもしれないが、それはわたしにとってはあまり価値が高くない、別のものだった。わたしは困った。そういう夢だった。
なんでそんな夢を…と家族にも話したが、自分ではわからず——。だがお昼近くになって、それは現実のこととなった。夢で見たような目に見える変化ではなかったのだが、わたしにとっては意味合いがまったく異なるものが、目の前にあった。精神的には、大きな違いがあった。けっこう何時間も、そのことについて心に引っかかりがあった。
きっと、そういった誤った結果が出るまでの過程で、たとえば相手との確認のときに何かがかみ合っていないとか、何らかの未確認情報があるような気がするとか、そういう違和感が、意識のどこかにあったのだろう。仮に夢を見た直後に自分がその意味を理解していたとしても防ぎようのないことだったので、あとからわかっても意味なしであることは、たしかなのだが(^^;。
夢についてまじめに考えたり、意味を追求したりするのは、家系かもしれないと思う。若いころに苦労の多かった伯母は、昼間ほんの少しうとうととしただけで、目の前の天井から蛇がつがいで降りてきたそうであるし、わたしもまた、木造アパートの一階に住んでいたころ、二階があるのだからありえないことだが、昼間にうとうとしただけで天井の一部が崩れ落ちてきたことがある。とても疲れていた。体というより、心が疲れていた時期だった。そして自分の考え方や悩みが自分を疲れさせているという悪循環だった。
そして、母にもやられた(–;。
まだ最初の職場にいたころで二十代前半くらいだったと思うが、わたしは預金もなにもかも崩し、現金だけ作って、数ヶ月アメリカの語学学校に行くのはどうだろうと思ったことがあった。それを考えたらほとんど眠れず、徹夜に近い状態で朝を迎え「ほんとうに行ってしまおうか」と思ったのだが、その日のうちに母から電話。「どこか行っちゃう気がして…」。それを聞いて、思いっきり気が萎えた。電話で話したりしたときなどの、何かちょっとした言動で、気配がばれてしまうのだろう。困ったものだ。
願わくば「よい方向に」勘が当たってほしいものだが、そういう夢は見ないし、よいほうの予感は当たらない。ある意味、ものを見る目が「心配の匂いがする方角」に向いているのだろう。困ったものだ。
できれば、ハッピーな風が吹いている方角にこの感覚をむけていけるよう、願っている。