この数年、義母を東京にひきとってからとくに感じていることがある。数年先くらいには何かをやりたいと、いつも漠然とした「いつか」を見ているが、頻繁にそう考えているわりには実感がともなわないのだ。その「いつか」は、「いつか時間の使い方を変えることができる日が来たら」なのだが、具体的に書くならば、義母が施設にでもはいるか、亡くなるときというのを第一の「いつか」として、わたしは考えているのだろうと思う。
だが、人任せの「いつか」をずっと思い描くことほど、非生産的なことはない。人生にはいつ何が起こるかわからないが、だからこそ、それらに関係なく自分でも何かを決めて開始しておくことも必要ではないかと、強く思う。
これまでも、いくつか転機があった。
2004年初夏のころだったか、製菓学校の通信教育に申し込みをして、約2年間を学び、2007年には製菓衛生師の資格をとった。これは自分で決めて実行したことだ。いまもこれは貴重な体験だったと思っている。いちおう更新期限などのない国家資格であって、よほどのことがないかぎり剥奪されることもない。将来何かの役に立つかもしれない。
そして多少は話が前後するが、約10年前の2006年の晩夏から1ヶ月以上、わたしは入院した。これはまさか入院だなどと、しかも長期だなどと思わず、体調がつらくて出かけた休日当番医の総合病院で「帰っても無理です、あなはた自力で(この体調不良を)治せません」と、断言されて目の前が真っ暗になった。だがそのときは数日だけの入院だろうと思っていた。入院が長引くとわかり、そしてようやく退院したその日から、生活に関することの多くが変わった。
だが、つらいわけではなかった。日々のあれこれが変更になっても、自分のペースで生きていくことはできていたのだから。
さらに2011年、東日本大震災で、ただでさえ認知症の疑いがあった義父母(ほかに同居人なし)が、震災による社会の変化や、自分たちの慣れ親しんだ土地が津波に流されていく映像をテレビでくり返し見たことが一因とは思うが、それ以前よりさらに輪をかけて、自分たちだけの世界に閉じこもってしまった。
かねてより、言動のおかしさを考えて通院を勧めたいが本人たちは自覚がなく余計なことを言えば怒り出してしまう——そんな思いがあったところに、震災が追い打ちをかけたのだ。義父はその夏にぽっくりと亡くなった。義母を東京に呼んだ。
いま、高齢者の福祉のことや介護施設の状況についてあれこれと思う。介護するために離職をしなければならない人をゼロにすると言っているらしい現政府は、介護施設の職員の給与や待遇をどんどんと悪化させているだけでなく、介護は原則として家庭でおこなってほしい、症状が重い人のみを施設に、という方針を崩していない。これはあきらかに矛盾しているが、おそらく政治家は一般家庭が自由に使える(もしくは必至で捻出できる)平均的な額などわかっていないのだろうから、それで困るなら家の中で誰かが働けと思うのだろう。パートで25万円などという例文が平気で口から出てくる首相もどこかの国にいるようだから、政治家というものは、だいたいにおいて、庶民の感覚とは違いすぎるのだ。
これらの状況を考えるにつけ「義母が数年先に(施設か死亡かはともかく)同居しなくなるようなことがあったら」などは、待っていられないと、しみじみ思う。自分がそのころ抜け殻のようになって力尽きているのは、まっぴらごめんだ。だから、何かをしておきたい。そのときのわたしは、すでに「よっしゃっ!」と、気分を切り替えて次に行けるようにしておきたいと思う。
目標のようなもの。そのうちのひとつ「これにしようか」という候補は、思いついた。
ほかにもいくつか考えておこうと思う。