アメリのストーリーの細部はさほど覚えていないものの、おそらく見た人の多くが記憶しているのではと思うのが「やたらと空想が長い」主人公だった点だ。ほとんどそればかり、それが中心だったと言っても過言ではない話だった。
わたしはこのところ、さほど楽しくもない空想が突然にはじまって止まらず、それがけっこうリアルで困っている。たとえば今日などは、昼に揚げものをしていたら「この揚げ鍋が油ごと床に落ちる」というシーンが頭から離れない。けっこう怖いのだが、頭にそれが浮かんでしまい、違うことを考えられない。しかたないので正直に、揚げものをしながら「こういうところがさっきから思い浮かぶんだけど〜」と、近くにいた家族に、茶化すように話しかけた。そうでもしないと、やっていられなかった。
今日の揚げ鍋にかぎらず、はじまってしまうと想像はかなり具体的で、まるで実体験に近い気がしてしまうのだ。だが過去にそういう事故を起こしたことはなく、今日も自分が揚げものをしながらめまいを起こしている実感もなかったので、体が自分に危険を知らせていたわけでもない。それなのになぜ自分が揚げ鍋を(ガスにかけたまま)落とすと思うのか、ひやひやした。幸いなことに、揚げものは無事に終了した。
さきほど、Facebookの画面を見ていたら「今なにしてはる?」という文字が出た。そんなばかな、わたしは標準語設定にしているし、たしか標準語と関西弁しかFacebookにはないはずだから、京都の言葉ははいっていない。それなのに何してはるとは、何事だ…。
だがふたたび見ると「なにしてる?」と出ている。なにしてはるの「は」は、見間違いだったのだ。いったいどういうことなのか。たった数秒のあいだだったろうが大量のことを考えた、だがそれはぜんぶ無駄だったのだ——このくらい笑える話だったら、毎度まったく気にならないのだが(笑)。
この傾向(やたらと具体的に何かを思い浮かべる)は、いまにはじまった話ではない。家族が出先でわたしの顔を見て、それがはじまったというのがわかるらしく、たまに話しかけてくることがあった。だが、そういう場合はあきらかに身の危険はないレベルの空想というか「連想」をしているだけなので、問題はない。だがこのところの具体的な空想には、ちょっと心配している。頭か体か、どこかおかしいのではと。
物の名前が出てこない、菓子屋の名前が出てこない、俳優の名前が出てこない…30代くらいまでは、考えられなかったことが起こる。年だからという言葉で片付けられない。正直なところ認知症が怖いし、健康で暮らしていける意味での寿命がどれくらいあるかを、大いに考えている。
もしかしたら明日どこかでとんでもないことがあって命を落とすかもしれないし、意外に長生きするかもしれないのだし、そんなことを考えても仕方ないのだが、認知症だけはほんとうに嫌だと、しみじみ考えている。2025年には65歳以上の5人に1人が認知症という予測もあるようだ(参考:認知症ねっと内の記事)。こうなったらもう、その20%にはいらないように、なんとしても逃げ切りたい。
認知症にならないこと、健康で生きていける日々を少しでも維持することがまるで目標であるかのような話になってしまうが、これではあまりにさみしいので、たまには明るい映画でも見て楽しく過ごしたい。もちろん、アメリ以外で(笑)。