3月11日は震災から丸7年で、いろいろな特集記事を読んだり、関連書籍にどんなものがあるのかを検索するなどして過ごした。テレビも少しは見た。
あの晩に、書けなかったことがある。
わたしの中で、今後の被災地をどういう姿勢で応援していったらいいのかということが、7年経っても、まだまとまらないのだ。
いろいろな意見を読み、福島や東北在住「以外の」人間がここぞとばかりに被害を政治利用している(原発反対、食の安全や健康がどうのといった話題)という話も目にした。
東京都に住むわたし個人は、事故後のごく初期の段階から、福島だろうとどこ産だろうと売られていれば野菜を買っていたし「ほんとうに、福島産を使っている店というだけで激しい言葉でボイコットをする人が、いるのだろうか」、「いたとしても、じきに減るだろう」という程度に感じていた。だが一部のネットメディアなどを見ていると、人数は減りもしないようにも見え、過激さも変わらない。
買っていた理由はただひとつ。売られていたから——つまり検査などを経て売られているのだろうと、普通に思えたからだ。まして、行政単位である「県」で農産物を区切るのがいかにナンセンスかを考えてみればよい。
わたしは北関東の生まれである。震災の年の初夏、報道でたまには東北や関東近県の「かき菜」などで数値が高いから出荷を止めるという話も聞かれていた。親は庭の一部で家庭菜園をしながら季節の野菜を楽しんでいるが、その年は申し訳なさそうに「今年もかき菜を送っていいのかい、やめておくかい?」と尋ねてきた。子供に気を遣う親が哀れだった。わたしはもちろん送ってもらった。そして食べた。
食品に関しては、ほんとうに、そこまで必要なのかと思えるほどの検査を、つい最近までつづけていたと聞いている。現在も規模は縮小されても、おそらく検査は継続しているのだろう。そこまでしても、言う人は何かしら言う。陰謀がある、隠蔽がある、ほんとうは汚染されていると思う人は、減らないのだろう。
福島出身の転校生だというだけで子供を激しくいじめる子供たちがいると聞いたときも、理由を福島においているだけで、ほんとうは何か「よその子は嫌い」という排他主義でいじめているのではないか、ほんとうに放射線がどうのこうのといった馬鹿な理由でいじめる子供が(いくら子供だからといってそんな理屈が通るはずもないし)いるわけはないだろうと、そう思ったこともあった。だが、いるのだろう。きっと、いるのだ。ほんとうに、そういう子供たちにどこから説明していったらいいのか。親や周囲の雰囲気を見て、文字でも言葉でもない何かを吸いとって無意識に団体行動をする子供たちが、いるのだろう。まさに大人がしっかりして、大人が放っている「なんとなくの雰囲気」から治していかなければならない問題だ。
ただ、ここまではわたしも自信を持って書ける内容だが、病気については、わからない。
福島の子供の癌は「検査しすぎで見つかりやすくなっている」のか、「ほんとうに多い」のか、これは素人には判断できない。
もしこれが、感情を持った生身の人間というものが対象ではなく、植物などの話であれば「片っ端からデータをとって徹底的に比較したら答えが出る」と言えるが、相手は人間である。検査が増えたら、ストレスになる。傷つく。結果が出るまでは落ち着かず、かえって健康を害してしまう。
まして、農産物のように、数字がはっきり出ていても、まだ福島産を嫌がる人はいるのだ。検査をすることで傷つく子供たちが増えるであろうときに「もっと検査して、はっきりさせれば」と言ったら、より多くの苦痛を強いることになる。そうまでしても偏見は消えない可能性があるのだ。
これからも、この問題は考えつづけていかねばならない。
来年の3月に、自分に答えが出ているかどうかは、まだわからない。