いつかそのうち読もうと思ってリストに入れていたkindle本が、なぜか半額だった。すぐ元の値段にもどってしまうといけないからと、続編と一緒にポチッと購入。続編も合わせて1冊分の料金で買えたことになる。なんともラッキー。
わたしの好きな「女猟師」などの著者である田中康弘氏の本だ。狐に化かされたとか、山小屋に何か出たとか、迷うはずのない場所でなぜか迷ったなどの事例を本人たちに語ってもらい、ただひたすらまとめていく。集めて採録しているだけなのでオチなどをつけようという意図は著者にはないが、その潔さが気持ちよい。読む側のわたしもひたすら読む。まだすべては読んでいないが、あっというまに読み終えそうだ。
わたしは、山育ちである。山菜の季節、きのこの季節には、親や近所の人について山に出かけては、足手まといになった。わたしがいると気になって採れないと親が言ったこともあったように思う。おそらく山菜もきのころくに採らずにちょろちょろしては、迷惑をかけていたのだろう。…ともあれ、山育ちであることだけは、事実である。
母親はわたしが住んでいた場所の山をひとつ越えたところの出身だった。山というのはやっかいなもので、服の汚れも疲れも気にせずに山を越えるならば、地図上の直線距離で考えれば、あっという間であった。だがそんなことをする人間はなかなかいない。そこで麓を経由してぐるりとまわれば、車でも15分くらいある位置関係だった。自転車ならば30分以上かかったと思う。
何が言いたいかというと、直線距離ならすぐの場所に母の田舎があっても、気軽にふらっとは行かないような「山が多い」場所に、わたしは住んでいた。人はのんびりしていた。40年くらい前までは、午後に近所の人たちが誰かしらどこかの家でお茶を飲んだり、世間話をしていたし、近所の田んぼで田植えをしていた人がやってきて、母に「弁当を使わせてください」と言うこともあった。
弁当を使わせてという古い日本語は、いまではあまり聞かないと思うが、こちらの家で弁当を食べさせてもらいたいという意味だ。母はお茶を出して、その人の食事のあいだ世間話をした。弁当を持参するより徒歩数分の自宅で食べたほうが気を遣わなくていいのではと現代人としては考えないこともないが、少しのあいだ休憩したらすぐ農作業にもどるという、理にかなったことだったのだろう。
山が多い場所だったので、山の昔話は、親からたくさん聞いた。どれも似ていた。同じ話を何度も聞いたが、それなりに楽しかった。母の知り合いのおじさんが、どこそこ沼に材木が浮かんでいるから調べようと近づいたら模様が変わった(ヘビだった)、走って逃げたつもりが動転してどこか寄り道してしまったのか、家に帰ると一緒にいたはずの犬が先に庭にいて自分を待っていた、などだ。狐や狸の話はあまり出なかったが、あのあたりは沼が多かったのか、ため池や、ヘビの話は多かった。
もう、あのころ親から聞いたような他愛のない話は、する人も、聞きたがる人もいないのだろう。こういう本は貴重だと思う。