時差がないことも手伝って、日本の昼間から夕方にかけてテレビをつけるたびに南北融和のニュースが何度も目に飛びこんできた。歴史的な瞬間というのは、思いがけないところで訪れるのだと実感。まさか今月中に握手が実現するとは。
両国内や周辺国での一般市民の思いはどうであれ、少なくとも日本は、政治的な意味では完全にこの状況を読み間違え、北朝鮮に対する強攻策のまま継続する予定でいた。このとつぜん実現した融和の兆しに、歓迎の意を表明することは、おそらく難しいのだろう。
さて、この数日で考えていたことがある。結論は出ていないし、文章にまとめることもまだできそうにない。
人は育った環境や時代、そして受けた教育により、さまざまな考えを持つようになる。肌で感じて学んでいくこともあるだろうし、誰かに言われて影響を受けることもあるだろう。そしていったんしみついた(または身についた)ものがあれば、違う考えにあとから触れてもなかなか同等には考えられない。
わたし個人は、外国人差別、部落差別などの実例をまったく肌で感じたことがないまま育って大人になった。地域差もあるのだろうが、朝鮮半島の南北やその国民(もしくは民族)について、とくに強い思いも持っていないはずだ。だが中には、何がそうさせたと思うほどに、嫌ってあたりまえとでもいうような態度の高齢者がいることにも、気づくようになった。今回の件も、いろいろな捉え方があるのだろう。
このところ、懐かしいことが書かれた本を読む機会が増えた。それはそれでとても楽しいことであるが——
あまりに迷信が過ぎるような内容があると、気持ちが揺れる。昔は一般的に言われていたかもしれない言葉でも、「懐かしさ」とは一線を画して新たな価値観も一緒に伝えていきたい思いも強くなってきている。だがどこで線引きをするか。そのあたりがわからない。たとえば外国人差別、部落差別、女性差別はいけないが、高齢者くらいまでの世代にしみついている「六曜」などは、どう考えるか。そのあたりが、現在のテーマだ。
六曜も別に根拠はないが、冠婚葬祭をあれで決める世代と、その世代に遠慮して付き合っている若手世代とがいる。この先はわからないが、しばらくは残るだろう。あれはわたしにとってあってもなくてもいいものだが、うちの田舎の親世代は六曜が書かれたカレンダーがないと物事の日取りも決められない。うちの母などはほんとうに迷信深いところがあった。いまもおそらくそうだろう。
わたしにとって「女性には月に一定の日数の穢れ(生理)があるから○○をさせられない」は、とても許せないことなのだが、人によっては、そちらはどうでもよくて六曜が許せないような場合もあるかもしれない。その人なりの理由があるのだろうが、あまりに人それぞれの考えに委ねれば、社会がまとまらない。ある程度の合意形成は、つねになされていくべきだ。
わたしの中だけでも、もう少し「懐かしさ」と「迷信はだめ」と「どこで線引きをするか」についてまとめられたらいいのだが、まだすぐには難しそうだ。