何年も前から気になっていた。プラスチックは資源になるのかどうか。
たしか90年代くらいに「プラスチックは燃やすとダイオキシンが出る」とか「環境ホルモン」という言葉がさんざん聞かれ、わたしが住んできた界隈(杉並区、中野区にしか住んだことがない)では、プラスチック類は不燃ゴミ扱いだった。
その後、10年少し前くらいから、界隈ではプラスチックマークがあり汚れがついていないものは資源ゴミとして回収することになったのだが、実際にはそのころまでに、都内でもプラスチックごみを資源として回収するのをやめ、焼却に変更する区が出はじめていた。ダイオキシンの発生は焼却炉の性能改善でやわらぐので、燃やして得た熱を有効活用し温水を作るとか、あるいはいったん燃やして体積を減らしたのちにどこかへ埋め立てるほうがよいとの判断なのだろう。
さらには、かつて東京西部のどこかの市で、プラスチックなどを資源として回収しつつも再活用のめどがたたないあまりに、市民には告げず廃棄にまわしていたことが発覚して謝罪のコメントを出したことがあったと思う。それくらい、理想(リサイクル)と現実が、噛み合わない状態だった。
わたしは決まりとして資源ゴミに協力しているが、いつもむなしいと感じている。汚れが簡単に落ちる程度のものはすすいで資源ゴミに出すが、微妙なものは判断に困るし、微妙なものを洗うための水は、流れていってもいいものか。紙パックのようにあきらかに「紙と印刷のみ」といったものとは違い、プラスチック包装物は値札シールが貼られていたり(これは都の案内では小さなものなら貼ったまま気にせず出せということらしい)、どの程度のサイズまでを資源ゴミに出して残りは焼却なのか(たとえば薬のカプセルを抜いたあとの周辺包装部分は回収に出すのか、粉薬だった場合は洗うのか?)、あれこれ事例を思うと、とても何かにリサイクルされている実感がない…というものも、けっこう多い。
そんなとき、世界各国が中国などアジアの国にプラスチックをひきとってもらっていたことが発覚。知っている人は知っていたのだろうが、どの国であれ多くの人々は、自分たちの国でリサイクルできていたように感じていたのではないだろうか。
ヨーロッパやアメリカで「プラスチックのストローをやめよう」と言いだしたのは、彼らが環境問題に急に厳しくなったからではない。遠路はるばる中国に渡していた廃棄物が断られるようになってきたからだ。日本は中国が無理ならどこかの国でひきとってもらえないかと悠長にも逃げ道を探しているのだろうが、対応が遅れている。おまけに先日のインドネシアでのG7では、海洋プラスチック憲章に日本は署名しなかった。ほかは米国だけのようである。なんともはずかしい。意識の低さの表れである。子分が親分と一緒の行動をとって尻尾を振っているつもりかもしれないが、相手は子分とも思っていないのは歴然としている…。
日本の一般市民までレベルが低いと思われるのは、実に困る。
動きの遅い国や自治体にまかせておくのではなく、一般市民の側でも、リサイクルなどこれまで「たいしてできていなかったし、これからも期待できない」ということを認識していく必要がある。積極的な意見交換や働きかけにより、プラスチックをできるだけ「使わない、いまあるものは確実にリサイクルできるもの以外は焼却」方向に、考え方の舵を切っていかねばならない。
世界の一部の国では水道水にマイクロプラスチックがはいり、アジア産の食塩、米国産のビールにもはいっているという。
京都新聞 2018.09.02 微小プラスチック世界の水道水に 食塩や米国ビールからも検出
日本は危機感なさすぎである。