子供のころから20代くらいまでは、わたしが見る夢といえば「電話がかけられない」が定番だった。電話機の形状などがおかしくて操作できない、電話が通じても相手がとりあってくれないなど、いくつかパターンはあるのだが「連絡が取れない」という困った事態になる点で共通していた。
東京に出てきてしばらくしてから、学校(ほとんどの場合は中学校の校舎が出てくる)に出かけるのに時間割が頭にはいっていなくてどの教科書を持っていったらいいのかわからない、または時間が迫っているのにくだらない用事が重なってぐずぐずし、家から出られないというものが増えた。おそらくひとり暮らしをするようになって「時間に遅れようが何を忘れていこうが自分だけの責任」ということが身にしみてきたからだろう。夢の中ではわたしは中学生ではなく、何年間かその立場を離れていて急にそこに復帰することになった”やや大人”のような設定が多い。
そして、30代のころから増えてきたのが、植木鉢の夢。
実は植木鉢というのは、よほど計画的に管理しないかぎり、東京の賃貸住宅では悩みの種になってしまいやすい。花が終わったら、植え替えたら、あるいは枯れたら、その中の土はどうするのか——実は東京はほとんどの場合「有料」でひきとってもらわなければならない。使った土をよく日に当てるなどして殺菌し、養分を足して再利用するなどの手段も考えられるが、「そこまで深く考えずに鉢植えを開始して家に古い土が増えてしまったという人」は、何割か存在しているはずだ。古い土をひとまず管理しようとしているレベルならばまだよいが、わたしのように面倒が見きれなくなって古い土のはいったまま放置した植木鉢がいくつも庭に転がっている人間は、ただ頭をかかえる。
もっとも、捨てる神あれば拾う神ありで、こういう人間のため別料金で「植木鉢にはいったままの古い土」まで回収してくれる業者さんは存在するらしい。ここを引っ越すことになったら連絡してみなければ。
さて、前置きが長くなったが、植木鉢の夢だ。わたしの夢の中では「枯れたものが無残に残っている」とか、「猫の糞などがはいっていて不潔になっている」、「なにかとにかく怪しい(怖い)存在」といった、よくない象徴として登場。そのたびにわたしは「自分がちゃんとしていなかったから」と思うらしいのだが、ならばこれからきちんと片付けて二度と悲惨な植木鉢を出さないと明るく考えるのではなく、ひたすら憂鬱になり、おっくうと考える。目を背けても自分の過去が消えるわけではないのに、できれば見たくない、考えたくないと、夢の中で遠ざかろうとする。
今朝の夢は、ひときわ不気味だった。以下、怖い話が苦手な方はご遠慮いただいたほうがよいかもしれない。
(夢の内容 ● ホラーっぽいのでご注意 ● )
植木鉢に枯れかけた植物が残っている。背がやや高くて、大人の胸くらいまであるものだが、何の植物かはわからない。葉の雰囲気はワラビのような(つまりシダっぽい)ものだった。
その上のほうの枝から下に向かって、直径で3ミリくらいはあろうかという強力な蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。
蜘蛛の巣ならばヌシがいるだろうが、1本の太い糸で、巣ではない。つまりそこに何か獲物がかかっても蜘蛛がそれを食べることはない。
糸の上のほうには昆虫類が少しかかっていた。
そして下の方には、大きな植物のつぼみくらいの大きさ(人間の親指くらい)で、猫がかかっていた。形はさなぎのように長く、そして固くなっていた。
その猫は死んでいるのかどうか不明だが、じっくり見ると目が少し動いた気がした。急いで蜘蛛の糸を切っておろしてあげようと思うのだが、指で引っ張ったくらいでは、その糸が切れない。
そうこうするうちに、家の中から家族が出てきた。わたしは「猫はまだ生きているかもしれない、でも糸が手で切れない」と助けを求めた。
すると猫をちらりと見た家族が言った。もう死んでいる、と。そして、途中で切ろうと思うから切れないが、大元の、植物の上のほうで葉ごと切ってしまえばはずれる。はずしてそのままゴミ袋に入れようと言う。
直前まで猫が猫がと悩んでいたわたしは、一瞬唖然としたものの、家族がすでに蜘蛛の糸ごと猫をゴミ袋にいれれてしまうのを見ながら、ただ考えていた…「わたしが決めたことではない、死んだと決めたのもゴミ箱に入れたのも、わたしではない」と。
目が覚めてから、自分が許せなかった。ああ、こういう人まかせのようなところが自分にはある、と。直前まで、猫がとわめきながら、ある瞬間に切り捨てる。そういう人間だ、と。
寝覚めが悪かった。
だが、よいこともあった。そんな夢を見るきっかけになった要素は大きくわけて3つあったと思うのだが、そのうちふたつは、問題ないことがわかったのだ。実生活での悩みがそんな夢を見させるのだろうから、普段からできるだけ気持ちを溜めこまないようにしておくことが大切と思う。ただ、逆に言えば夢の中である程度のショックを受けることで、気持ちの整理ができているのかもしれない。