子供のころ、かさ地蔵の話がよくわからなかった。かさ地蔵だけでなく、おじいさんが「年を越すために商いに出かけて何も売れないまま帰ってきた、さあどうやって年を越そう」の系統すべてである。
ものが売れないと年が越せないとは、何事か。子供心にわからなかった。商いをしてそのお金で「年を越すための何か」を買うのだろうと思った。だが昔話に出るような「年を越すための何か」とは、どんなものなのか。考えても考えても、米とか餅しか思い浮かばなかった。だが米や餅がなければ、飢えない程度に普段食べている何かを食べて、どうにか数日を耐え忍べばまた平日がやってくるのではと、数十年前の子供時代にわたしは考えたわけだ。
正月という新しいことがはじまるときに、不安に駆られることなくのんびり過ごしたいという思い、それが「無事に年を越したい」なのだろうが、なかなかその思いを理解するまでに年数がかかってしまった。
さて、昨日の午後に銀行ATMがどこも長い列になっているのを見て、ひさびさにかさ地蔵を思った。「これだけキャッシュレス化が進んでいても、やはり人は現金がないと不安なのだ」と、実感。
わたしなどはスーパーはクレジットカード払いだし、コンビニもセブンイレブンならnanaco(ただしチャージをしていない場合にはチャージ用の現金は使う)で支払う。現金を使うのは1000円以下の買い物、たとえばパン屋やドラッグストアであるが、それらは毎日寄るわけではないので、おそらくわたしは週に数千円しか現金を使っていないはずだ。それ以外は引き落としである。
単純計算では、この年末年始にキャッシュは1万円もあれば足りることになる。だがああしてATMに並んでいる人たちを見ると「もし大停電やシステム障害でレジが使えなくなったら、店で何かを買うときはキャッシュだよな」と、不安になる。そもそも、何かあった場合に店で買い物をするまでもなく、心配性のわたしは普段から食料品や生活用品を買い置きしてるというのに、それでもつられそうになる。
財布を見たら2万5千円以上あった。昨日も今日も、隣を歩いていた連れに言った——「おろさなくていいよね」。そして、こちらが言い終わらないうちに鼻で笑われた。
今年も、無事に年を越せそうだ。