いまのお子さん世代にはどういった接し方なのかわからないが、数十年前にわたしが子供だったころ、病気や事故などにより周囲と見た目が違う子に対して、大人たちが「(見た目について本人に)言っちゃいけません」という態度を示していたことは、覚えている。からかうのはだめだというのではなく、その子が周囲と違うということについて、話題にするなといった印象だった。
自分と家庭環境が違う子、家族構成や家族の職業がちょっと珍しい子などについても、だいたい同じような状況だった。あまりそれについて詮索せず、周囲の子と同じに接しなさいと考える大人が、けっこういたと思う。もちろん、田舎の子供時代であるから、自分の親と学校の先生のほかに近しい関係にある大人の数は知れているので、主観に基づく話ではあるが。
わたしは「あの子は人と違う、だから話を聞いてみたい」といった発想そのものが、もしやよくないことなのだろうかかと自問しながら、高校までを田舎で過ごした。
見た目の違いをことさらに話題にすることで、その子を友達として受け入れていないような誤解が生まれる、だから話題にしないように…ということなのであれば、実際には、それを子供たちに告げていた大人たちが、とても気にしていたのだろう。
それを悪意だとは、もちろん本人たちは思っていない。だがそれは本人たちが思いやりであると考えるだけの、おそらくは残酷な優しさだったのではないだろうか。
見た目の似た人々が多い環境でずっと暮らしてきた、多くの日本人。とくにわたしの世代などは、前回の東京オリンピックのあとで気分が高揚し、経済的にも発展しつつあった時代に育っており、周囲の貧富の差を現在ほどには感じにくかった。ほんとうに「似ている人たち」が多かった。だからこそ、見た目や環境が違う人が、いればとても目立った。
違いを指摘するような言動について、事前に「(可哀相だから)言っちゃいけません」と釘を刺してきた大人たち、そしてそれを吸収して育った、わたしの世代。そしておそらく、最近の世代も、その傾向を持つのだろう。
日清のカップヌードルの宣伝動画で、アニメとして登場した大坂なおみ選手が色白で表現されていた件に関し、おそらく日本では「大坂選手の肌に黒人らしさを出すことよりも、アニメの世界として登場人物らに一体感を出すことのほうが自然ではないか」という意見を持った人も、いるのではないだろうか。
違う人もいる、人はみんなどこかしら違う。そしてその違いをきちんと言葉や態度に出せることのほうが自然だろうと、いまは思う。