映画「ゴースト ニューヨークの幻」で、デミ・ムーア演じる主人公がいくら I love you, Sam. (愛している)と言っても、言われたサムは ditto (同じく)と答えるシーンが何度かあった。作中で重要なキーワードになってくる場面だ。
このときのサム(演じたのはパトリック・スウェイジ)の言葉は、ゆくゆくは結婚をしたいものの気持ちの重さ(責任感)があり、どうしても気軽にアイラブユーが言える心境にない、という描かれ方だったように思う。
今日、Facebookでアメリカの知人がシェアしていた短い動画に、強いメッセージを感じた。重い言葉なのに本気で言っているのか、アイラブユーを、そんな軽い気持ちならやめてしまえ、言葉ではなく姿勢で示せばいい…というものだ。
英語での動画であるため、日本に暮らすわたしが受けた印象と作者の意図は少し異なるかもしれないが、アイラブユーの日本での表現とされる「愛している」について、以前から書きたいと思っていた。だがきっかけがないまま過ごしていたので、今日は書いてみたい。
わたしは50代の人間である。映画作品など以外では、実生活において周囲に誰も「愛している」などという言葉を使う人間がいない環境で育った。自分も言ったことがないし、誰からも言われたことがない。わたしにとってはだが、それはなにやら作り物のような、嘘くさい響きしかないのだ。
慣れの問題はあると思う。その言葉にどう接してきたか、その年数が長いかで、違いはあるはずだ。
昔の本を読んでも「愛でる」は出てきて「愛」という漢字そのものはあったことがわかるが、愛するという動詞を対人関係で使うようになったのは、おそらく近代になってからなのではないかと想像している。わたしの場合は、文字として(たとえばエッセイなどで)個人間の「愛する」事例を見ずに育ってきた、だから外国の映像作品などで愛しているを見ても、外国だからかと考えがちだった。自分のこととして身近な環境に置き換えると、なにやらその言葉は嘘くさく作り物のように感じてしまったのだ。時代がくだって「愛している」が日本のメディアに出るようになっても、やはり自分には使えない、使いたくないという思いが強まった。敬遠する理由のうち大きな部分は、慣れるきっかけや期間がなかったという、そんな事情が占めているのかもしれない。
(余談だが、ある特殊な状況下において、否定形で「愛していない」と言ったことならば一度だけある。ある状況下においてのことであり、肯定形で自分の気持ちとして言ったことは一度もない。そしてこのブログでも念のため検索したが「愛してやまない」のような使い方で2件のみ引っかかった)
この件については、検索してみたこともある。だがその言葉を言われたときにどう感じるかの話が、多めにヒットするようだ。
さきほど見た何年か前のネット記事では、参加者に「愛している」という言葉について答えてもらった結果が書かれていた。半分くらいは、違和感なく聞いたり使ったりしているようだ。この割合はおそらくどんどんと増えていくことになるのだろう。
思いやる言葉や、気遣う態度というのは大切だが、わたしはおそらくこの先もずっと、自分で「愛している」を使わないだろうと思う。言われることもないだろうから ditto も言わない。だが、別に不都合も生じそうにないし、それでいいだろうと考えている。