先日のことだが、何かのはずみに「熱海の目立つ場所に、貫一お宮の像があったような気がするが、どういう評価になっているのか」と、検索をしてみた。評価というのは、あれはどう見ても男性が女性を足蹴にしている像であり、物議を醸すことはないのだろうかという意味だ。
すると数年前に、像の下に「暴力を助長するものではありません」というプレートがついたのだということがわかった( → 参考: 2016.11.18 ポストセブン 熱海「貫一お宮像」に「暴力肯定・助長の意図なし」プレート)。
(Wikipediaから画像をリンク)
By じゃんもどき – 投稿者自身が撮影, 日本著作権法46条/米国フェアユース, Link
ネットでもいくつか意見を検索してみたのだが、やはり、蹴るには蹴るだけの理由があり、貫一はひどいことをされたという無理からぬ背景を知れば…といったご意見もあるようである。
それらの方々にとっては、すごくよい作品です、作品の世界を知ってください、という意味合いでのご意見だろうと思う。実際に、思い入れがある人もいらっしゃるはずだ。だが、少しでもその思い入れのバランスが崩れると「それなりの理由があれば(暴力もやむなし)」のほうに、重点がいってしまうことがあるかもしれない。
そこで、わたしはあえて言いたい。
数十年前までは、文学でも映像でも、暴力描写はいまよりも激しかった。「昔はそういう描写がありました。昔の作風を尊重して制作したもので、これはあくまで芸術作品です」としておけば、誰も傷つかないのではないだろうか。
昔はこうでした、いまは違いますという、区切りをつけた考え方ができれば、この件に限らず楽に話し合える事案というのは、けっこうあるような気がしている。