終わり方について、考える

 東日本大震災から8年の昨日はあえて書かなかったが、このところ、終わり方についてよく考えるようになった。けして暗い意味ではない。死を願うような心境という意味ではなく、終わり方、だ。

 わたしの実父は1996年3月の下旬に自宅で突然死した。亡くなってみて、ずいぶんと片付けができている人だったと気づいた。たいていのものが想像のつく場所に置いてあって、わたしが何かひとつを探すにも、母が「そこになければ、ない」と断言すれば、それで話は終了するほどだった。それで残された者たちすべてが納得できた。

 自分は、まだまだだと思う。今日も部屋を片付けた(正確には片付けようとした)が、最低限にとどまった。
 家の周囲は民家の解体が進み更地になっている場所が多い。これは東京オリンピック前に街を片付けておいて売れる場所があれば売ってしまおうという不動産業界の思惑なのだろうが、あまりに近所過ぎて、どんな人が住んでいたどんな家屋だったかまでを思い出せる場所もある。東京で、さして急ぎもしないであろうこんなことに人材や重機をつぎこむのなら、東北の被災地で建設的な用件に人的資源を回したらどうかと、何度思ったことだろう。もう来年に迫ったオリンピックは、東京の金持ちと建設業界のためにあるようなものだと、わたしは本気で考えている。

 齢を重ねたら、広い家にゆったり住みたいと、子供のころのわたしは自分の将来をそう想像していた。だがいまは違う。身の丈にあった暮らしで、それがずっとつづくとは思わず、固執せず、ただ心だけは静かに生きていきたい。

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