たいへん評判がよいという映画「新聞記者」を見た。つい1週間前までそんな映画があることも知らなかったし、昨日まで原案が東京新聞の記者望月衣塑子氏の同名著書であることも知らなかった。
わたしがうっかりしていたのか、ほんとうに宣伝があまりなされていなかったのかはわからない。ただ、わたしが公開後に英語の新聞記事でそういう映画があることを知ったのはたしかで、どんな映画なのかと日本語で検索をかけ直してから、興味を持った。そして家族が昨日の午後に映画館のチケットを見ていて「ついさっき見たときからでも席がだいぶ減っているから、もうとってしまったほうが」と声をかけてきたので、そうしてもらった。
映画を見て、まずは正直に思ったことを書こう。
作品そのもの、とくにストーリー構成などは、普通程度に面白い出来である。とくに何かが優れているとか、はらはらしたとか、そういったことはない。冒頭では現実にあった事件を関係者名を申し訳程度に変えつつ混ぜこんで紹介し、テレビ映像(ニューストークショー)のようなものも用意しているので、ある意味で現政権へのギリギリの当てこすりのようにもとれる。
役者の演技や表情はよかったし、わざとらしい展開もなく、地味で安定した映画であったと思う。
だが、この映画は根本なところで「枠の中」にとらわれている。官僚はこんな感じの人々、支える家族や奥さんはこんな感じの人びと、新聞社には圧力がかかる、それをはねのけることが上司にできるかできないか——まったくもってステレオタイプだ。
そして新聞記者として体を張って生きている女性主人公は、普通の日本人女性でそんな役柄設定はあり得ないということだったのだろうか、アメリカ育ちで父が日本人ジャーナリスト、母が韓国人という設定だ。普通の日本人女性で努力に努力を重ねた人である設定にすることもできたはずだが、この映画はそれを選ばなかった。親の実績があったならば、そして外国育ちならば、つぶされないだけのガッツ(とコネ)があったのだろうと観客に匂わせることができて、制作者側には便利だったのだろうと想像している。
日本の実社会にありそうなものを描こうとしたせいで、その枠の中に自分たちを閉じこめすぎて、この映画はもがいている。そして、あまりにも現実の事件と重ねすぎると問題だとでも思ったのか、冒頭からつづいていた大きな謎(このままであれば認可されてしまう大学はいったいどういうものなのか)を、金がらみの泥沼以上に規模を大きくし、人道的な危機につながりかねない展開にした。このギャップが、やや浮いて感じられる。
周囲の客層を見ても、普段あまり連れだって映画館に来ないような方々も多く、この映画の提起する問題はとても深いのだろうと思う。観客の多くがどのようにこの作品を受けとめるのかはわからないが、多くの人が政治やメディアを考えるきっかけを提供したという意味で、有意義な映画だろうとは思う。
だが、映像作品としては、さほど…というのがわたしの評価だ。
さて、最後にわたし自身が気づいた、別のことについて。
女性主人公の新聞記者が、あるお宅を訪ねる。意を決して訪ねて、家に入れてもらえる。季節は秋であったと思う。
部屋に通され、温かいお茶を出されるが(——それが温かいお茶であろうと思うのは茶器からの判断)、そこからが、よくある展開とは違った。
多く見られる展開は、まず「お気遣いなく」といったような態度を客が示してから、ひと呼吸をあけて「いただきます」というかのように(実際に言うかどうかはともかく)茶をひとすすりする。
だがこの主人公、一瞬じっと湯のみを見て、すぐさま両手にとり、2〜3口ほどごくごく飲んで(熱くないのか?)、おもむろに本題にはいるのだ。
それが冷たい麦茶で外が夏なら、別によいのだが、このシーンについてしばらく気になって考えていた。帰宅してからも気になって家族に言うと、しばらく考えてから返ってきた言葉が「普通の手順を踏むようなキャラではなく、ちょっと変わっていると描きたかったか、あるいはほんとうにこの映画の中では、そんなことはどうでもよくて、制作陣は誰も何も考えていないのでは」とのこと。
なるほど。茶が出たらこうするものだ、そうしないのならば理由があるのではと勘ぐりすぎるわたしもまた、枠にはまりすぎているのかもしれない。