40年近く前かもしれない。
いったん東京に出てきてから田舎に休みで顔を出したのか、あるいはまだ田舎にいた時代かは思い出せない。わたしは親か知人の運転する車で市街地の弁当店の前まで行った。運転していた人物は車にいたので、わたしが弁当を注文して受けとりを待っていた。
地元のおばあさんが来た。明日が子供(年齢的には孫だろう)の運動会なので、おにぎりをにぎってくださいと言う。声は小さいし、頼み方が謙虚すぎて若い店員にはよく通じないようだ。ようやく聞き取れた「おにぎり」に、高校生くらいに見えるその店員は言った——「今日は、おにぎりは、終わってしまいまして」と。
そのときおばあさんは、きっと自分が言った言葉が通じなかったのだと思ったらしい。明日は子供の運動会なので、おにぎりを握ってやってください、自分ができればいいんだけれど用意できなくて…ごにょごにょ…と、くり返した。その口調や身振り手振りまで、わたしは思い出せる。
店員は困りきって、奥に声をかけた。おにぎりは終わってしまったんですよねと、再確認する。奥からやや年齢が上の(といっても20代くらいの)男性が出てきて「おにぎりは終わりました」と答えた。
おばあさんは衝撃を受けたようだった。もしかすると自分が意地悪をされたのかと思ったかもしれない。なぜならそのおばあさんにとって「弁当屋で、炊いた米があって、海苔があったら、握り飯がなぜ作れない?」という思いだったのではと思う。そのおばあさんは当時のそのあたり(市街地)にはあまりいない、どちらかといえばわたしの住んでいた山際の田舎にいそうな雰囲気の人だった。何か事情があって自分が用意できないから頼みに来たというのは、よく聞き取れなかった前半部分で雰囲気を察していた。
いっぽう弁当店にしてみれば、決まっている数で仕入れをして、おにぎりは何個と決めていれば、その予定を崩してまでおにぎりを作ることは、発想としてなかったのではないだろうか。またその日はとても暖かく、おばあさんが言う「明日が」というのが本当なら、わかりましたとおにぎりを出すわけにも、いかなかったかもしれない。
おそらくこの人たちはわかりあえないんだろうなと、そんな風に思ったときに自分の弁当が出てきて、わたしは車にもどった。
この弁当屋とおばあさんのような話(単純に思える話なのにわかりあえない)は、世の中にいくつもいくつもあるんだろうなと、いまだに思い出す。