1996年のアメリカ映画「評決のとき」という作品をご存知だろうか。黒人の少女が白人青年ふたりに(性的なものも含めて)激しい暴行を受ける。その白人青年らが軽い罪に問われる程度で済んでしまいそうな気配に、少女の父親はぶち切れて、裁判所で男たちに銃を向ける。
映画の大半は、その後にその父親を弁護していくことになる白人弁護士(マシュー・マコノヒー)と、それを支える協力者(サンドラ・ブロック)の奮闘を描く。
黒人差別の根強いミシシッピ州が作品の舞台である。白人らが黒人を弁護するということで、事務所は白人至上主義者らから、執拗な妨害に遭う。身体的な暴力や、命を脅かすような脅迫もある。だが弁護士は、最終弁論で、陪審員に見事に語りかけた——(20年以上前の映画なのでネタバレをご容赦いただきたい)。
彼はその場にいる全員に、被害にあった少女が黒人であったから事態を軽く見ているのだということに、まったく逆の言葉を使って、気づかせるのだ。
素晴らしい作品だった。
思えば、わたしはそういう映画作品を好み、本も社会派なものを愛読してきた。先入観はだめだ、開けた視野を持たねばと、ずっと思ってきた。アメリカ人や欧米人という言葉に白人系を連想してしまうのはいまどき時代遅れだとも、ずっと考えてきた。アメリカはこのところ白人系以外の人口伸び率が高く、2044年ころには白人は全体の5割を切るのではという説(*1)もあるほどなのだ。
そうだ。わたしは、気をつけている「つもり」の人間だった。
自分もその先入観にどっぷり浸かっていたと、思い知った。
2015年にスタンフォード大学構内で起こった性的暴行事件の被害者(当時の仮名はEmily Doeさん)が、昨年に実名で手記を書いたことを思い出し、書名を頼りにネットで検索してみた。実名はChanel Millerさん。そしてお写真を見て、衝撃を受けた。アジア系だった。おそらくご両親のいずれかが中国系で、ご本人は中国名もお持ちとのこと。
白状しよう。
わたしは、中国系を連想していなかった。白人で金髪とまで考えたわけではないが、やはり無意識に、アメリカの事件と聞いてアジア系を除外してしまっていた。これは、今後はじゅうぶんに気をつけねばならないことだ。いまからまた気を引き締めよう。
Chanel Millerさんのインタビュー(昨年のNew York Times)は、こちら → https://www.nytimes.com/2019/09/04/books/chanel-miller-brock-turner-assault-stanford.html
たいへん美しい、輝いた女性である。
(*1) 2018.09.06 ナショナルジオグラフィック「白人が少数派になる米国で今、何が起きているか」