山口百恵の曲がApple Musicほか多くの配信サービスに提供されたとのことで、さっそく好きだったアルバムを2枚ほどダウンロードしてみた。
芸能界にいたのが約7年という短さでありながら、引退後にほとんど公の場に顔を出さずにいたことで、人の記憶から風化をまぬがれた歌手であり女優が、山口百恵だ。家族に熱心なファンがいたことで、わたしはアルバムのほとんどすべてを聞いていた。いまもカラオケで流れてきたらかなりの曲が歌えると思う。歌詞もある程度なら覚えている。
だが、さっそくそのダウンロードしたアルバムを流していると——意外や意外、気分が重苦しくなってきた。
なんというか、自分の体にそれが「濃すぎる」のだ。
40年くらい前の田舎の子供というのは、遊べる選択肢がそれほどなかった。誰かが小遣いをはたいて漫画やレコードを買えば、みんなで交代で貸しっこをした。そして自分で購入したものは何度でも、本なら穴の開くほど、レコードならすり切れるほど、楽しんだものだった。
そんな時代に聞いていた曲を、いま東京で片手間に流していると、耳を通じて過去が逆流してくるのがわかる。しかも怒濤のごとく。
あのころどんな家に住んでいて、どんな部屋で曲を聴いて、そしてこうした昭和の曲(*1)に違和感を感じないなかったどころか、どっぷりと浸かっていた過去の自分——そうしたものすべてが、よみがえってしまう。
そして誰しもそうだろうと思うが、子供のころは楽しいことばかりではなかった。
子供時代にかぎらず、人生のある期間で楽しかった面を人はぼんやりと記憶し、そうでもなかったことは上手に忘れながら、また次の期間へと、先に進みつづける。
だから子供時代と同じものがそのまま目の前に出てきたら、強すぎて吸収できない。水割りにしたほうがいいウィスキーをロックで目の前に出される気分だ。しかも、わんこそばのように、おかわりが次々と。
かつての日々がなつかしいと思っても、上手に思い出しながら、それ以外は忘れたままでいるほうが、思い出や過去はよりまろやかな香りをたもてるのではないだろうか。
山口百恵は、ときどき、水割りのように数曲だけを聴くことにしよう。
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(*1) たとえば、しばしば古くさくて時代遅れ、または女性が歌うものなのに男性作詞家の価値観がつづられた歌詞も含めて、ということである。
以下、昭和のころに聞かれた歌詞…
あなたの女の子の一番たいせつなものをあげるわ、やら
聞き分けのない女の頬を、ひとつふたつはり倒して、やら
悪いときはどうぞぶってね、やら
…こうした歌詞に違和感を感じない人がいたのが、昭和の一面である。