ネットで人と話がかみ合わないなと、思うことはたびたびある。話が合おうと合うまいと、誰しも学業やビジネスなどで頻繁に顔を合わせる関係でもなければ、実害がないものだろう。たいていは放置だが、たまには「ちょっとコメントをしてみようか」と思うこともあり、そんなときにあらためて驚かされる。
立場や考え方の基本が違うと、こうも話が合わないのかと、何度目かわからないほどの衝撃を受けそうになり、深く考えないようにして、そっとその場を去る。
たとえば先日、クラウドファンディングで資金が貯まったら全国で花火を上げたいという秋田県の団体(日本の花火「エールプロジェクト」の話が、英語の記事で紹介されていたときのことだ。6月1日にすでに実現していた全国の花火(5分程度の詳細は非公開なサプライズ企画 Cheer Up! 花火プロジェクト)がネットで話題になってすぐだったと思う。
日本にお住まいもしくは関心のある外国人が英語で参加していた場をちらちら読んでいると、割合としてはごく少ないのだが、カネの無駄だと熱く語る人が何人かいた。どうも、全国の花火に税金が使われると(どうしてそう考えたのかは不明だが、それは間違いないことであるかのように)認識している人もいたようで、そんなことより新型コロナで困っている人を助けるべきだ、と書いていた。
無駄なエネルギーを使いたくなかった根性なしとしては、それらのうちの誰かへ個別にコメントするではなく、単体の意見として「花火というのは何ヶ月も前から準備しているもので、いまから作るわけではない。職人さんたちはすでに在庫を持っている。そして今年の花火の回数は少なくなるはずで、この夏にこうした企画があった場合に、それらはおそらく花火業者さんの持ち出しとなるはず」といったことを書いた。
同じ意見の方もいらしたようで、すぐさま「いいね」がそこそこいただけたのだが、半日ほどして、コメントがついた。
そんな高い金額を、(花火業者が)寄付するなどあり得ない、国のカネが使われるはずだ、と。
すでに「もう作ってしまっている花火だ」と書いてあったのだが、それでもこのコメントかと、首をかしげながらも「6月1日の花火は業者さんの団体が主催、現在進行中のものはクラウドファンディング、リンク先等にもそう書いてある」とコメントしたのだが、また返信がついた。
そうした関連ページのどこにも、国のカネが使われていないという表現がない、という。そして「クラウドファンディングというのは商品を買うために資金を集めるためにやるものなのに、話がもう決まっているかのようで逆だ。すでに国が払ってしまっていて、いま集めているということはないのか」と。
もう、お手上げだった。なぜか国が関与しているという思いは強いらしいが、それ以外の説明(業者からの持ち出しや、クラウドファンディング)が書かれているのであるから、書く側もそれ以外の文言を記事に含めないし、読む側も期待もしていないものではないだろうか。
仕方ないので、もう一度だけ、資金を集めるとしてもそれは商品代のためではなく、もしうまくいったところで、当日の作業の足しにできるかどうかである、と返事をした。また、花火業者が花火(製品)の支払いを誰かから受けるというお考えであるなら、わたしは持ち出しであると考えているので、これ以上の話は実を結ばないとお伝えした。
ネットというのは、疑問を検索すれば答えが出るものもあるが、自分の考えがすでに頭の中で強く固まっている場合に「同じ意見の人を見つけられるかを目的にしてしまう」とすると、なかなか危険な展開になる。
同意見を探せば、それは見つかるには見つかるだろう。だが見つけることを目的にしてしまうと、それ以外の意見も読んでみて自分の意見を再検討してみる機会を、自ら捨ててしまうようなものだ。
わたしはネットで「ブロック」というものを、ほとんどしたことがない。自分のブログや関係先にスパムを書きにくる人やロボットがいた場合には対処するが、個人的に気が合わない人に自分の投稿が見られないようにブロックしたことは、たぶんない。ただ自分が見たくなくて「○○さんの投稿を減らす」を押したことはあるが、その方は数年前に他界されていたとわかったので、現在のところ、どなたもブロックしていないはずだ。
疲れそうな人にはできるだけ近寄らないようにすることと、その人がいないようにふるまう(ブロックして見えなくする)ことは、けっこう違う。よほどこの先に何かあれば別だが、自分と考えが違う人たちがいることを、忘れないように日々を過ごしていきたいと考えている。