年をとった実感を、珈琲に感じるとき

 この1〜2年くらいだろうか。珈琲の豆をあまり買わなくなり、ドリップしたものが1杯ずつセットされている商品(通称ドリップバッグ)を、たくさん買うようになった。ブランドによってはかなり美味なものもあり、当初のころに感じていた割高感もどこへやら、最近では各社のものを出先で見かけるたびに、せっせと買っている。

 かつては、楽天の「珈琲問屋」さんほかで、月に1回程度はまとまった量の豆を買っていた。さらに別の店からは、自分で焙煎して仕上げるタイプの、うっすら焙煎した状態の豆を買うこともあった。それらを買う量は、どんどん減っている。

 そして、そのころから、実は気づいていたことがある。
 認めたくなかったが、もはや正直になろう。

 わたしはドリップバッグが好きなのではなく、手挽きミルを使うのが面倒に思えてきたのだ。

 2年くらい前までは、挽いてある豆を7~8割くらい買っていたとすれば、残りは豆のままだったはずだ。それに自分で焙煎するものは当然のことながら豆状態だった。それらのうち、たった2杯分を手挽きミルに入れてコリコリと挽くだけの作業、あれが面倒で豆から遠ざかり、ドリップバッグに走っているような気がする。これはどういうことなのか。珈琲に関するさまざまなことが、あれほど好きだったはずなのに。

 ちょっとしたことを面倒に感じはじめるのが、老化のはじまりなのだろう。少しずつ、手順に関して無気力になって、結果が似ていればいいやと思えてくるのだ。これは心の老化だ。

 そういえば田舎の実母は、いまのわたしくらいの年齢のころだったか、わたしが田舎の家に顔を出すたびに、言うようになったことがある。「前は帰ってくる日にあれもこれもとご飯を作っていたのに、何もやる気になれなくなってきて、ごめんね」と。そしてその数年後には、家に来ても何もないといけないから、駅前で何か買ってきたほうがいいかもと、正直に言ってくるようになった。

 当時も現在も年に1回すら田舎に顔を出さない不届き者であるため、わたしは母の顔を見て「ああ、また老けたな、小さくなったな」と思うことはあったものの、何か食べ物をあてにしていたわけではなかった。だからそうしたことをさほど気に留めなかった。

 だが「珈琲豆を挽くことすらめんどくさい自分」というものに気づいてしまったいま、この軽い無気力さ混じりのあきらめは、立派に老化なのだろうと認めざるを得ない。

 幸いまだ自家製酵母でパンを手ごねしているので、それすらもやらなくなったとき、わたしの日常はどんなものかと、まだ想像ができずにいる。

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