ブログというシステムはちょっと廃れてきてしまったかなという思いは、このところ実感している。たとえばこのブログも、かなりアクセスを稼いでいたバウムクーヘン記事をあちこちに分散して書いていることもあり、この数年でお客が減ってしまったが、アクセス減の理由はそれだけではあるまい。SNSなどひとつの場所で大勢とつながれるのだから、わざわざ個々のブログに見に行くという作業を気持ちとして「重い」と感じる人が、増えたのではないだろうか。
読み手のみなさんについては、つくづく「あれれ、その先の1クリックをなかなか押してくれないものだな」と、ややさみしく思う。たとえばFacebookよりも人間関係がまだ薄いTwitterでは、写真や概要を紹介し、残りはこちらにとリンクを置いても、読んでくださっているであろう方々のうち少しの割合しか、リンクに興味を示さない。どうやらその概要だけで、よいようなのだ。
わたしは最近バウムクーヘンの話題でnote出張所を作っているが、こちらはアクセスだけはすごい。note.comというところは検索エンジンも書いて数分後に拾ってくれるほど有名サイトらしいが、何か書けばそれへのアクセスはかなりある。だがざっと見て終わりで、そこから先にどなたかがリンクを押してくださっている気配は、ほとんどない。
なぜそう感じるかというと、note.comで書いているバウムクーヘンの詳細のうち、一部はこのサイト内の過去記事をリンクで紹介しているが、1日あたり80や100もクリックされた記事であっても、このブログに飛んできてくださっている方は、ほぼ皆無なのだ。おそらく何気なく記事をクリックしたものの「もういいや、それ以上の説明はもういい」といった印象なのだろう。自分も書店でたまにやるが、雑誌をぺらっとめくって終わりにし、本棚にもどす、あの感覚である。自分もすることなのだから、人様を責められることではないし、何か考えるのは自分の側だ。がっかりするだけで終わってはいけない。
もともとの知り合いが多いFacebookでは、何かを書けばクリックしてくださる方が数名以上いらっしゃるものの、note.comから人が来ている気配はほとんどない。そして、note.comの利用者だけがブラウザの設定を変更してリンク元を見えにくくしているということは考えにくいので、これは事実なのだ。
言い換えれば、人間として書き手を知っているかどうか(有名な人か、あるいは親しい人か)ということは、見出しの言葉にもきれいな写真にも、そして思いをこめた文章内容にも勝って、「クリックしたくなる気分」にとっては重要な要素なのだろうと、思い知らされる。
ここで考えるべきは、「では人にクリックしてもらえるような有名人になるには、どうしたらいいか」ではない。普通の友達づくりと同じで、地道な作業をくり返すしかない。
まずは地道に自分から周囲のnoteを読んで、参考になったものには「スキ」を押す。そして自分のマガジン「お菓子note」へ収録する。自分の記事にスキがついたり、マガジンに収録されて、それでもこちらをまったく見に来ない人というのは少ないはずだ。ひとりひとり、そうして「スキ」を押してまわる。するとゆくゆくはフォローやフォロワーの輪が広がり、周囲が安心してくれる。
経験上、フォロワーがいったん増える傾向になると、あとはよほどさぼっていないかぎりは、減らない。
時間はかかるが、新しい場所で、新しい人たちとも、知り合いたい。地道にやっていく。