知人とのやりとりでおもしろいことがあったため、ざっくりと書いておくことにする。
いつも仲良くしているアメリカ人女性(ただし幼少時には日本語も話していたし、現在もある程度はわかる)から、メッセージが。曰く Home is where the heart is. を日本語っぽく書くとどうなのか、という質問である。
これは、いろいろな意味がある言葉だ。古くから定訳とされているものには「ふるさとは遠きにありて思うもの」がある。だがおそらく彼女が聞いているのは、そうした郷愁的な古い響きではないだろう。現在どこかで何かに使いたい人がいて、代理でわたしに質問をしてきたのだろうから、自分なりに「(実際にどこにいようと)心のよりどころがある場所が、ふるさとです、ということだよね?」と答えてみた。
すると、ふるさとの意味は彼女も理解できているため、すぐさま「タウンとかエリアではなく、もっと、家みたいなの」と英語で答えてくる。そこからが複雑な話になった。
何回かのやりとりをかいつまんで書く。わたしは「家のことをわざわざそういう風に表現することは、日本ではあまりない。ふるさとみたいに大きな存在についてなら自然に言葉にするけれど、家は(あたりまえすぎて)、わざわざ愛とかぬくもりとか、そういった言葉で表現することは、あまりない。ほんとにそういう狭い意味でいいのか?」と答えてみた。
すると彼女は、その英文 Home is where the heart is. がアメリカの田舎の家などで刺繍飾りとして使われていると語り、その画像をリンクで「こんな感じの…」と紹介してきた。
いや〜、驚いた →(参考までにこんな感じの画像検索結果)。間違いなくこれは「わが家」系の意味合いで使われているのだが、日本で「家はいいよね、わが家や暖かくてすばらしい」のような内容を日本語で刺繍することは、ほぼまったく、考えられない。少なくともわたしはこれで、かなりのカルチャーショックを受けた。
そこで、再度検索。するとテニスの大坂なおみ選手が最近この言葉をテニスシューズに書いていたということを知り、そのときに日本語で紹介されていた訳が「家庭とは愛情のあるところ」という意味合いだったため、これでいいかと連絡をとって、話題は終了した。
その際、わたしの驚きが文体から伝わったのか、日本ではそういうことは個人的に(わが家はいいよねーとか、一緒にいればそこがわが家だねーなど)言うことはあっても、文字にしたり、刺繍にしないことを理解してくれて「このやりとりは、ぜんぶそっくり伝えておく」とのことだった。
いや〜、たったふたりの人間がとことん話し合ってやっと合意できたのだから、もし最初の質問を受けた段階で定訳である「ふるさとは遠きにありて思うもの」などと答えて「間違いない」とどや顔をしていたら、たいへんなことになっていたかもしれない。