先ほど英語でまわってきた笑い話で、設問が間違っているから答えようがないものがあった。
赤丸がついているところが、笑える部分であるのだが…
(ジェインとキムという人名が出てきたのに、無関係なスーザンが登場して答えようがないという話)
…これももちろんおもしろかったが、わたしはその下に着目した。池なのに「8匹のうち7匹が泳いで去りました、池に何匹が残っていますか」というものだ。池は普通は閉じているので、トビウオのように隣の池までジャンプして移動することができないならば、池にとどまらざるを得ない。だから泳いで去ろうと8匹ぜんぶが残っているはずというのが、わたしの考えだ。
こんなふうに、解釈の揺らぎを起こすような問題が、自分にとって重要な試験に出てしまったらどうしようと思う。
実はそれで思い出したことがある。
高校の時のことだ。このブログにも書いたことがあるかどうかは忘れてしまったが、もし二度目だったら失礼。
生物の試験があり、採点のあと用紙が返されたとき、同級生ふたりが教師に抗議した。メンデルの法則を人間に当てはめた設問で「この法則にのっとると、○○な人間は何人が生まれることになるか、答えよ」だった。
詳しい数字は忘れたが、単純に数字として割合を考えると、人間が小数点以下の数字で表現されることになるのが正解だった。パーセンテージという設問ではなく、何人であるかだったため、同級生らは「人間に0.5などはない。整数だ。切り上げか切り捨てか、とにかく整数で答えるしかなかった」と。
教師はとりあわなかった。だがふたりは何度も抗議した。ちょっと見ていてかっこよいと感じた。わたしはそこまで考えずに小数点で答えたのだが、そのふたりには我慢ができなかったのだろう。自分になかった発想が、とても新鮮だった。
不正解は不正解で、覆らなかったが、このふたりには、周囲に(少なくともわたしに)かっこよいと思ってもらえるチャンスがあった。そうではなく無念な思いをする人のほうが、多いことだろう。
世の中の多くの場合は「相手がどういう解答を求めているか」を、答える側が推測したほうが、だんぜんお得な状況になっている。それを推測できない人(あるいは推測をしたくない人)は、損をしてしまうことが、ままある。
だがわたしは、あのふたりの、あの日の表情を見ることができて、いい経験をしたと感じている。