子供のころ(おそらく70年代)、周囲の同年代らは「1999年に、地球はなくなるんだって」と話していた。遠い先のように感じたが、「とりあえずそのころまでの将来を思い描いておけばいいのか、そのあとは考えなくていいのか、楽だな」と考えたのを覚えている。わたしはとにかく先の先の先まで考えてしまう性格で、将来というものに期限があるのであれば、考えることをやめる日が来るということであり、前もって休暇が約束されているようなものだと考えたのだ。
ところが99年には何も起こらず、その後も日々はつづいた。
東日本大震災が起こったり、最近のコロナ禍のこともあるが、それよりも地下鉄サリンと阪神淡路大震災が同じ年だったというのが思い出すだに衝撃で「よくあんなことがふたつあった年を乗り切ったな日本人」という思いでいっぱいである。
いま、政治も社会もどんどんとおかしくなってきているが、不思議なことに、先を考えることにうんざりしていたはずの自分が、先を見届けようという気持ちが強くなってきた。以前は「この先この国はどうなるのか」という不安があって、政治が悪いのに投票に行かない人たちに腹が立っていた。社会について、怒ったり嘆いたりしてばかりだった。
たとえば安保法成立に力を貸した(当時参議院議員の)松田光太氏が許せずに「タリーズにはもう行かない」と心に決め(←松田氏は日本にタリーズを入れた創業者であり、経営からは離れていたもののわたしにとって氏はタリーズの人だった)、その後は事情で1回だけ利用したのみである。ほかの政治家に対しても、怒りとか、許せないとか、そういう思いをいだくことが多かった。
だが、少しずつ人と社会は変わる。
昨日の山口県での衆院補選は、結果を聞いた瞬間に耳を疑ったものの、ネットで数字を見たところでは、勝負はかなり競っていたらしい。山口県の有権者の方々がまじめに考えてくれて、それでもああなったのだ。けっして山口県のみなさんが適当だったというのではない(もちろん投票率の低さは残念ではあるが)。今回の補選が、投票というものへの意識が少しずつ高まるきっかけになっていくと信じたい。
統一地方選挙でも、東京のいくつかの区では女性区長が誕生した。そして少なくとも中野、杉並など界隈の区では投票率が1〜4%上がった。1票以内の僅差で明暗が分かれた議員も複数出た。そんな話題のひとつひとつが積み重なっていくことで、投票という行為の重みが少しずつ有権者の心に浸透していくのではないかと、そんなことを考えている。