とてもではないが面と向かって人に言えるはずのない乱暴な言葉が、堂々と、在日外国人の多い街でのデモで聞かれているそうだ。あまりに情けない話。
わたしはほんの数回しか海外に出たことがないが、ヨーロッパでは(アジア人への態度が実際にはどうかということはさておき)、ちょっとしたホテルのパンフや説明書、旅行者向けの案内などで、あまり日本では見ない表現にお目にかかった。人種や出身によって不快な対応をされたらそれは看過されるべきものではないので、相談してくださいといった案内だ。
実際には、見た目がいかにもアジア人観光客だと、店や公の場で、どうせ言葉がわからないだろうから、あまり近づきたくない、最後にしたいといった態度をとられることはある。それでも、馬鹿にされているとか、出て行けと言われているわけではない。なんとなく、そういうのは理解できる。無理もないんだろうなと、思うことがある。慣れている人にばかり対応したくなってしまうことも、人間だから、あるだろう。
だが、そういう「どうしてもポロッと出てしまう態度」というのとは別に、全体の方針として「ほんとうはやってはいけないことだ」という筋が通っているというのは、安心できることだと思うし、それは成熟した社会の「はじめの一歩」だろうという気がする。陸つづきでさまざまな文化や人種と交流し、ときに争いをしてきたヨーロッパだからこそ、筋をまず通しておく、うっかりどころではないレベルで差別が見られたらそれは正式に問題化するという姿勢が、日本より早くに整ったと考えるべきだろう。
日本は見た目が似たような人々が大半の社会で、いちおう表向きには、派手な差別はない。だが表面化せず、大きな話題にならないことは、存在しないという意味ではけっしてない。
だいぶ前に会社の同僚(同年代の女性)が昼休みに、こともなげに話した。在日朝鮮/韓国人の学校が近かった当時はほんとうにいやだった、すれちがいざまに、不快のあまりこんなこと(なにかジェスチャーのようなもの)をしたと、さぞ周囲も同意見だろうといった具合に話した。わたしはまじめに、その意味がわからなかった。周囲の人々も同じだったのか、反応が芳しくないため、話題は急に変わった。
大都市で生まれ育ったかどうかなど背景の違いもあるだろう。話した彼女にしてみれば、年代も近い人がいたし、誰でも乗ってくる話題だと思ったのかもしれない。
わたしは東京に暮らしはじめるまで、まったく外国人差別を知らなかった。関東大震災のころにはパニックと誤報による差別で韓国人が多数殺害されたとか、そういう「過去の話」だと思っていた。実は大勢の在日外国人が、文化的背景を持つ姓名のほかに、日本名も併記で日常を送っているという。そうした人々の世間的に目立たず波風を立てないといった考えに甘えてしまい、日本人の多くは、実は外国人や異文化とすぐ近い場所に暮らしていることに気づこうともせずに、なんとなくのおだやかさ、といったものに浸かってきた。
まずは、知らないふりをしてきたものをはっきりと認識し、差別や乱暴な表現/行動は許さないという大筋の方針を大前提として、少しずつ社会に浸透していくのを待つべきと思う。何も問題がないとか、大げさなことをしている一部の人たちだけを罰すればいいと考えるのではなく、問題は今後も起こりうる、大筋だけでもはっきりとさせて、成熟した社会への一歩を踏み出すべきと思う。