イスラム国がYouTubeの動画を通じ、日本人男性ふたりの身柄を拘束していることをあきらかにした。日本の安倍首相がイスラム国への対抗策として海外に合計2億ドル相当の資金援助を表明したことを受け、ならばその日本人二名の命が2億ドルであるとしたものだ。72時間以内に支払わない場合は、殺害の可能性が強く示唆されている。
報道によれば人質のうち後藤健二さんは、10月末から行方不明だったという。彼らはタイミングを計って、もっとも効果的な状態で事を公にしようと手ぐすねを引いていたのだ。あるいは水面下では人質について交渉があった可能性もあるが、それにしても、今回の資金援助の話題を渡りに船とばかりに利用したことには違いあるまい。
自分に直接の火の粉がかかっていない状態で、もめている同士の仲裁にはいるでもなく、一部の側にのみ資金を提供したらどうなるか。これがまさに、集団的自衛権の行使に強い懸念をいだく一部のマスコミや識者が、口を酸っぱくして説いていたことである。意外にも想像より早めに、こうして残念な形で表面化したが、これはまだ今後起こりうることのほんの一部にしか過ぎない。
そもそもなぜ、日本の国内がたいへんなときに「合計2億ドル”程度の”」などと軽く約束してこられるのか。その金を出すのは一般の国民である。大企業は優遇されてまったく懐が痛まない仕組みとなり、一般民と中小企業の方にますます負担が重くのしかかってきているこの時期に「程度の」発言。いつまで金持ち国家を演じれば気が済むのだろう。
国としては、一国の代表が世界に向けて発した言葉を引っこめたらメンツに関わるという考え方をするものかもしれないが、そういうことを言っている場合だろうか。そもそも正当な決断とは思えないその資金援助を、再検討するという言葉とともにしばし凍結するのは相手の暴力に屈することとはかぎらず、ときとして大いなる決断となる場合もあるだろう。首相は外国ではなく、国民の側を見よ。
直接は売られてもいない喧嘩に、誰かに代わって進んで火の粉をかぶりにいくようなことを今後もしたいのであれば、いちいちすべてを国民審査にかけてからにしてもらいたい。わたしは何度でも投票する。そして何度でもノーを突きつける。
前回も書いたが、世界が穏やかな調和を見るには、それぞれの人の心に謙虚さが必要だ。西洋に多く見られるキリスト教的な考え方と、イスラム文化圏では考え方が違うだけでなく、ともに「自分たちが上であり正義」という態度を崩そうとしない。自分も相手もそれぞれに歴史があり、それぞれに存在しているのだから、どちらかが完全にいなくなる世の中はあり得ないと、まず考えなければならない。そしてどちらも存在できる居心地のよい世の中は、黙っていれば実現できるものでは、けっしてない。
日本のように、本来ならどちらの文化にも染まりきっていない国ができることは、どちらかの肩を持つのではなく、せめて立ち入らないか、あるいはあいだを取り持つ努力だけでも見せることである。軍需産業で国民の一部が潤うことよりも先に、考えておくべきことがあるのではないか。アジアが努力してくれているから戦争の火種が少しましになっているとでも言われるような、のちのち振り返ってみるとよい存在だったと言われるような、国であってもらいたい。周囲の身近な誰かが戦争にとられるとおびえなければならないような、そんな国を望んではいない。
口先と金ばらまきの表面的な外交ではなく、真の外交を、してもらいたい。