再開発は、周辺部にも変化を起こす

 このところ、界隈に大規模な工事が多い。とくにこの5年くらいは、家のすぐ近くまでもが建て替えなどで騒がしい。

 最初は東京オリンピック云々と関連があると思っていた。同時に、一時期よく耳にした住宅エコポイントなるもの(住宅の再建築や大規模リフォームで防火に対応、太陽光発電に対応すると補助金が出るとか出ないとか)と関係あるのかとか、あれこれ考えていたのだが、最近つくづく思うことがある。

 大規模工事や、界隈の建築がつづくと、これだけ好きだった自分の居場所(借家だが快適)から、引っ越ししたく思うことが増えた。気分を変えたい。生活を変えたい。切実に思う。
 そして1年ほどネットで住宅の中古物件、新築物件を見ていて思うのは、もしやみんな同じなのかも、ということである。騒音や再開発が原因で、家を手放している人が多いのではと思うのだ。

 たとえば不動産サイトで「この家は価格がおトクだし間取りも日当たりもいいが、道を挟んで隣で何年も工事やってるから、耐えられなかったんだろうな」、「ああこの家は線路からすぐだ」、「それにしても小学校の真横物件は多いな」とか…けっこう、そういうのがわかってくる。

 工事が終わったころに何も知らずに引っ越してくる人には、よいかもしれない。また小学校だろうと中学校だろうと、平日の昼間に家にいないならあまり関係がない(ただし週末には地元の行事に貸し出すことはあるが)。線路は曜日や時間を選ばないが、真夜中だけは止まる。夜だけ家にいる人ならば、耐えられるかもしれない。

 だが持ち家を好むのは若い共働き夫婦とはかぎらず、高齢な人たちもいる。今後の自分もそうだ。ほかよりやや安いからといって学校の真横や線路のすぐ近くに住めるかといったら、それはまた違う話だ。

 中野駅周辺が再開発の真っ最中で地価が上がり、中野駅からバス利用の距離であるわが家周辺にも「中野駅が便利になるかも」と、人がやってきている。新しい人たちが急激に増えることへの戸惑い、そしていままでの人たちが高齢化などの事情で家を手放して、そこがさらに新築工事となって騒音を生み——さらに新しい人たちがやってくる。

 変わらない街はない。変わらない場所もない。だが、いったん「再開発」ということになると、見えているものだけが変わるのではなく、人も変わっていくのだなと、この数年はほんとうに実感している。

日曜は、地元の投票日

 選挙は、残念ながらほんとうに盛り上がらない。わたしのように国政選挙ならば熱くなる人間でも、今回の地元の選挙は、盛り上がっていない。

 その前までの区長がすごい人だった(←多選禁止を自分から言い出して、かなり強い言葉で周囲を牽制しておきながら、自分が再々立候補しようとして全国紙に載ってしまった!!)ので、現区長はその人物へのノーを突きつける形で出てきた人。思いっきり違うことをやってほしかったという人たちにしてみれば、独自カラーを出していないじゃないかという話にもなるのだろうが、対抗馬は、ひとりのみ。このふたりでイエスかノーか決めるのか、という話に。

 さらに、区長選の対抗馬は数日前まで区議だった人なのだが、同じ日に投票がおこなわれる区議補欠選挙のこともある。その人が抜けたのが今回の区長選の直前なので、もっと余裕をもって辞めておいてくれたら区議選の補欠選挙が一緒に出来たのにという意見もあるようだ(←もっとも、辞職が何週間前だったならば今回の補欠選が一緒に出来たのかという具体的な情報を、わたしは持ち合わせていない)。

 それにしても、今回はとくに、盛り上がっていない。

映画: プロミシング・ヤング・ウーマン (2020)

 公開当時に話題になったアメリカ映画。内容がつらそうだったので後まわしにしていたが、どこかで放映されたときに家族が録画してくれていたので、見てみた。 (配信ならばAmazonにもある→ 2022年5月現在 399円

 30歳の誕生日を迎える女性カサンドラ(通称キャシー)を、キャリー・マリガンが演じる。コーヒーショップで働くが愛想はかけらもなく、いつも疲れた表情の彼女は、夜になるとバーに出かけ、泥酔したふりで男たちに自分を狙わせる。そしてここぞというときにしらふであることを告げて罵倒し、鬱憤を晴らすという日々を送る。

 彼女がそんなことをするのには理由があった。かつて大切な人がいて、自分にも生きがいがあった。だがそれらはすべて失われた。そして原因になった奴らは世の中をうまく渡っている。

 あるとき、その「過去」と彼女とのあいだに、接点が生じた。過去をより深く追求して関係者を苦しめることもできたが、そんなことをせずに前を向けと助言してくれる人、そして自分が立ち直るのを待ってくれている家族のため、幸せになる道を選ぼうとする。

 だが、過去はさらに牙をむいてきた。彼女はある決意をする。

 …これは、話の出来としてもすばらしい。終わりが明るい話でもなく、溜飲が下がるような勧善懲悪でもなく——だが、いるいる、こういう「うまいこと世の中を渡っているやつ、いるよ」という現実社会での暗さが、みょうにしっくりくる。あえてこの終わり方を選んだのは、脚本と監督の力量だろう。

 書くまでもないことだが、話はアメリカで実際に起きた若者による性犯罪にも着想を得た内容だ。たとえば女性側の被害内容ははっきりしているのだが、裁判官に「若くて将来がある男の子に厳しくできない」という考えがあり量刑が軽すぎて社会問題になった事例、あるいは学生時代に性被害に遭ったと証言した女性が複数名乗り出たものの、現在は最高裁判事のひとりになっている男性の件など。
 それらの事例では「それくらいのことで将来ある男性が」という意識が強く表に出されたため、あえてこの映画では「将来ある若い女性」を意味するタイトルが取られたのだろう。

 その「将来ある若い女性」であったはずの主人公が映画でどんな目に遭うか、お時間のある方はぜひ。

公務員の過失は、誰が穴埋めするのか

 亡き親が公務員だったし、義父母も公務員だった。公務員が真面目に仕事をしていることは承知している。

 だが、4630万円を間違えて振り込みした人は公務中の過失ということで、内部で叱責を受ける程度で済んだのであろういっぽうで、いくら使いっぷりが悪質とはいえ誤振込されたカネを使った男性は、実名公開で逮捕となった昨今の事件——それを誘発することとなった自治体の責任を考えると、釣り合いがとれないように思う。

 民事裁判の費用もまた、タダではない。もともと裕福ではなかったという今回の逮捕者に、民事裁判の費用まで含めた返済を求めるのは無理というものだ。

 公務員の過失は、通常はどういう方式で穴埋めされるものなのか、気になるところである。

ラテン語、はじめました

 おなじみDuolingoの話題だが、数日前からラテン語もやってみることにした。英語とフランス語がある程度わかる場合はラテン語は想像がつきやすく、あまり難しくないだろうとの考えで選択したのだが、やってみるとなかなかおもしろい。

 ラテン語といえば中世のころヨーロッパの共通語のように使われていた歴史のある言葉だが、現代の日常生活でそれを話す人がいるわけではなく、あくまで学習することで知識を得られる古い言語だ。よって学習する単語の事例に、現代の語彙は含まれていない。英語に訳しなさいという問題で、本来なら the US (アメリカ合衆国)であるところ、Duolingoのラテン語の学習ではすべて「アメリカ」になっている。もちろんアメリカ大陸ではなく、合衆国である。

 まだ開始して数日なので、この先どんな例文が用意されているのかは不明だが、スマホやノートパソコンが出てこないことは確実だろう。先が楽しみだ。

 ウクライナ語とロシア語は、少しずつ学習が進んでいる。苦手なのは格変化だ。なんと名詞が格変化する。日本語では格助詞がついて変化をするが名詞そのものは同じだ。例を挙げれば「リンゴと」だろうと「リンゴを」だろうと、リンゴ部分は同じである。だがウクライナ語もロシア語も、単語の最後のあたりでスペルが変わり(それなのに発音は少ししか違わないことが多い)、名詞が男か女か中性か、単語は複数か単数かで判断しなければならないため、duolingoのフクロウが得意げに「この欄には、どれがはいりますか」と、末尾のスペルが微妙に違う単語を出してくると、何度も間違いながら覚えていくしかないのである。

 ウクライナ語は、やっと数字の表現を覚えた。 6と7と8で間違う日々が長く、そのあとは5と9のスペルがやや似ているので混乱し、30なのか300なのかなどのゼロたちに悩まされ、泣きたくなるほどだった。もうしばらく数字は見たくもない(笑)。

 現在エメラルドリーグなので、このままリーグを上がっていくことができたら、4週間後にダイヤモンドである。ダイヤに到達したら、経験値を稼いで競うことよりも、気楽にあれこれと楽しもうと思っている。
 

5月12日、電車内の変わった表示

 その日は通院の予約があったため、めずらしく通勤時間帯の電車に乗った。といっても高円寺から一駅の各駅停車だったので、激混みということはなかった。

 ふと、車内の案内を見ると「丸ノ内線は乗務員トラブルのため遅れています」の表示が。
 あまりにも変わった表示だったので、朝の車内でなければ撮影しておきたいところだったが、さすがにそれはできなかった。

 これまで見たものでは、東京の西のほうで「鹿と衝突」というのがあった。JR用語では衝突ではなくて、なにか違った表現だったはずだが、いまは思い出せない。とにかくその表現で「えっ」と思ったし、ネットでも話題になっていたように記憶している。

 さて、すっかりその「乗務員トラブル」を忘れていたが、その日の晩に、ネットに話題がのぼっていた。乗っていた人たちが聞いた車内放送によると、乗務員が体調不良で、めまいがしたために、代わりの人がタクシーで駅に向かってから発車になったのだという。

 Twitterのリプライには、乗務員を気遣う人たちもいた。めまいは深刻な状況につながるが、本人がきちんと申告できたこと(問題になると考え、倒れるまで乗務するようなことがなく)、ほんとうによかった。

日本語における「呼び捨て」

 昨日こちらに書いた「呼び方」の話で、思い出したことがある。

 数十年前、わたしの子供時代のことだ。学校の先生が「呼び捨てはいけません、呼び捨てをされたことがある人は、した人の名前を、先生(←つまりしゃべっている教師)に教えてください」と、授業中に言った。

 そのとき、近くにいた同級生が、ここぞとばかりにわたしを指さした。…おい、またその話か。何週間も根に持つようなことだろうかと、ほんとうに驚いた。

 経緯はこうだ。その数週間前、同級生(仮にK実とする)が、緑っぽい帽子を頭に乗せて、おどけた様子でピョンピョン跳ねていたことがあった。たしかそのときも授業中で、何かのものまねをしてみようということだったのだと思う。わたしはK実がカエルのように跳んでいると思ったので「あっ、K実ガエル!!」と呼びかけた。

 途端にK実が真顔になり、「呼び捨てにした。ねえ、いま呼び捨てにしたよね、したよね」と、ずっと言いつづけた。へぇ、じゃあナニか? K実さんガエルと呼べばよかったのか、K実さまガエルか、アホじゃないか、と。

 この話を、上述の「呼び捨てにされたことがある人」のときに、ふたたび持ち出したのだ。
 教師は得意げに、名前が出た生徒たちを黒板にチョークで書いていく。わたしの周囲に何人か同級生がやってきて、K実とわたしを見くらべながら「ほんとに?」と言う。わたしは答えなかったが、K実は何度も「そうだよ、ねえ? したっていいなさいよ」と。

 数十年経っても思い出す。

 こんな例は山ほどあったが、K実の親がなぜかわたしの親と仲がよかったので、一緒に遊ばされることが多く、離れることができなかった。自分の親には話したが、嫌なことははっきりそのときに言ってしまえばいいと言うばかりで、親同士は仲良くするのをやめないようだった。それでまた一緒に遊ばされた。
 もっとも、K実の親はそれほど嫌な人ではなく、わたしがK実に意地悪されたことにあとから気づいて、K実を叱ったこともあった(←ただしそのときのオチが「謝ってから一緒に遊びなさい」だったので、うれしくなかった)。

 いまの学校教育はどうだかわからないが、呼び捨てした/しないで、黒板に名前をいちいち書かれたあの時代は、ほんとうに子供に対して無神経だったと思う。小中学校時代に嫌なことは多かったが、当時は「そういうものだ」と思って自覚しきれていなかった嫌なことは、思い出すたびにあとから増えていく。

 呼び捨てについて、いまの教育ではどうなのだろうか。そんな「呼び捨てはだめ」の子供時代を送ったせいで、英語圏の人と話すときにも、「さん」などが付いていないと落ち着かないし、自分も相手にそれを付けて呼びたいと考えてしまう。

上皇ご夫妻のメディアでの表記

 以前から気になっていたが、最近のメディアでは「上皇さま」と「上皇陛下」の表現が混じっている。わたしがよく読むメディア(毎日新聞のウェブサイト等)では「さま」であるが、別の場所では「陛下」らしい。

 以前に図書館にこんな質問があり、回答が「レファレンス協同データベース」に掲載されていた → 2015年11月19日 一般的に皇太子には「皇太子さま」というように「さま」をつけるが,なぜ天皇陛下には「さま」をつけないのか。
また,雅子さまについては,「皇太子妃」ではなく「雅子さま」と呼ぶのはなぜか。

 同サイトは、全国から図書館が参加して知識を溜めていく趣旨のデータベースだ。この質問と答えは宮城県図書館によるもの。

 かいつまんで書くと、

 ○ 法的な称号としては、皇室典範に

> 天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。
 前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。

 …と定められており(つまりこの時点でまだ定めがなかった「上皇」については、太皇太后、皇太后と同様になるはずであり、現在の宮内庁の発表でもそうなっている)

 ○ また、メディア向けのハンドブック(記者がどう書くかについて)では、
 …天皇以外の皇族について、あらたまった場合を除いては「さま」を使う、という各社の取り決めがなされている場合が多い、ということである。リンク先では共同通信社と読売新聞社の案内を紹介している。

 というわけで、上記を踏まえた場合、上皇ご夫妻もしくは上皇は「さま、ではなく陛下を使おう」としているメディアがあるならば、ほかの皇室の方々も全員「さま、を使わずに殿下にしよう」と決めているのかもしれず、あるいは上皇については天皇と同じ「陛下」にすると決めているのかもしれない。いずれにせよ、その社内では共通する新たな取り決めが生じているものと思われる。

映画: アンテベラム(2020)

 アメリカの作品。おもにオンデマンドで配信されているが、一部の国では劇場公開もされたという。わたしはU-Nextで見たが、Amazonプライムでも配信(2022年5月現在 399円)→ Prime Video アンテベラム

 まずは、アメリカ南部で優雅に暮らす白人女性と少女、その家屋、周辺のプランテーション、脱走しようとして拘束や殺害される黒人奴隷の映像が、おそらくは1シーンの長回しで目の前に現れる。予備知識もなく見た映画なので「なんだこの残虐さは」と、目を背けたくなるほど理不尽で、衝撃的な描写がつづく。主人公の黒人女性は罰として焼き印まで押されてしまう。
 家政婦として、農場の担い手として酷使されたほかに、夜は性交まで強要される主人公。

 だが、そのあとで、画面は一転して現代のアメリカになる。人権問題で熱弁をふるい、人の心をつかんで成功している黒人女性は、そこまでのシーンで奴隷として登場していた女優と同じだ。さらに何人か、農場にいた白人らと同じ顔が登場している。そこで頭が混乱してしまう——これは、どういう話なのか、と。

 先祖の話にでもなぞらえて物語が展開するのかと、あれこれ見ているうちに、中盤以降で謎が解ける。はっと気づいたときの衝撃。そしてその根本にある果てしなき「悪意」は、考えただけで気分が悪くなるほどだ。

 主人公は最後まであきらめず、戦い抜く。
 それらの描写を、見て「すかっとした」と思える人は、多くないかもしれない。だが、されたことを考えたらまだ足りないくらいの蓄積が、この主人公にも、アメリカの黒人社会にもある。

 白人は好まないであろう映画だ。アメリカで劇場公開を狙わずオンデマンドにしたのは正解だろう。

ダニング=クルーガー効果と、インポスター症候群

 天候が変わりがちな季節、こちらにお越しのみなさまは、いかがお過ごしのことだろう。

 天候などの影響かもしれないが、わたしは気持ちが不安定になることがある。去年は8月〜9月のころがひどかった。寝つけない、眠れないなどで、あれこれ試した。その後にヤクルト1000を飲むようになり、だいぶ改善されたのだが、この半月くらいまた寝られない日がある。ヤクルト1000の貯金が切れたのか、あるいは飲んでいなかったらもっとひどくなていたのかは、いまのところわからない。なんとなく早めにこの時期が過ぎ去ってくれることを祈るのみだ。

 ときおりだが、気分が落ちこむと「自分なんか運がよかったから無事に生きているようもので、世の中にはたいへんな暮らしをしたり、生活そのものが安全ではない状況の人もいる、自分なんか、たまたま運がよくて…」というループにはいってしまいそうになる。

 そこまで深く考えるのはたまにだが、漠然と「すごい人間でもないのに、無事にのらりくらりと生きている」というのは、つい頭をよぎる。楽しいことをしていると「楽しいことをして過ごしてしまった」と、考えることもある。
 疲れているのだろう。それは自覚している。

 ところで(わたしと違って)実際にすごくがんばった人物が、適切に評価を受けているのに「自分は運がよかっただけ、ほかにもっとすごい人もいるのに、なぜ自分が評価されたのか」と考えてしまうのを、インポスター症候群と呼ぶと聞いている。勉強家、努力家で知られる、世界に名だたる有名人らも、こうした考えで罪悪感をいだいた経験があるとのこと。

 先ほどこの言葉をど忘れしてしまい、曖昧な表現で検索したところ、インポスターより先に「ダニング=クルーガー効果」の説明が出てきて面くらった。こちらは、ただ状況に慣れているだけで努力もしていないし、能力も高いわけではないのだが、「自分はできる」と思って成長の必要性を感じずにいる人たちのこと。

 あー…。これは、身近にいたら迷惑だ。だが何を提案しても却下しそうな人物(自分のほうがよくわかっているから、話を聞くまでもないというそぶりを見せる)は、割合として高いかどうかはともかく、遭遇したことがある気がする。だが改善案を蹴るわりには、自分でなにかすごいことをしてくれるわけではない。よけいに周囲はイライラする、という流れだ。

 日常的には誰かと会話しなくなって、まるで引きこもっているかのような日々が長くつづくと、やはり心身のバランスを欠き、よくないものかもしれない。これからもできるだけ毎日散歩に出ようと思う。