ナスターシャ・キンスキー主演でロマン・ポランスキーの監督作品「テス」という映画がある。1979年の作品だ。当時まだ10代後半でドイツ以外ではあまり活躍していなかったナスターシャ・キンスキーが世界的に知られるようになった作品であり、日本でもテレビCMなどに出演した彼女は、またたくまに人気者となった。
さて、わたしは公開当時、ひとりで映画館に行ける年齢ではなかったと思う。友達と出かけることは(年齢的には)可能だったが、誰もこんな地味で3時間もある映画にはつきあってくれそうになく、田舎のことで地味な映画は公開期間もおそらく限られていたであろうし、見に行くことはできないと最初からあきらめていた。そのうちテレビででも放送するだろうと、それを楽しみにしていた。
当時わたしは映画が好きで「ロードショー」という月刊誌、そしてたまに「スクリーン」という月刊誌を読んでいた。当時はその二冊くらいしか、映画を(一般目線で)紹介する気楽な雑誌はなかったので、ほとんどにおいて、それらが情報源だった。
さて、映画の数年後に角川文庫から出ていた日本語訳で「テス」の原作を読んだものの、それ以前には上記のように、ロードショーなどの雑誌で映画関係者が書いた解説を読んだのみ。そのころ日本の雑誌で紹介されていたテスは「なんと気の毒で、運命に翻弄された悲劇の主人公なのだろう。あまりに気の毒すぎる」という、お涙ちょうだい路線であった。
それら解説と、数年後に自分で読んだ原作の日本語訳のほか、いつもテレビ放映などの際に(長さがありすぎるなどの事情で)後半や終わり際の部分しか見たことがなかった「テス」は、わたしの中でこの30年以上、消化不良を起こしていたのだが、ようやく今日、約35年にして、ようやくそれらがひとつになる機会があった。どこかの有料チャンネルで、今月「テス」を字幕放送していたのである。今日が最後の放送だったようで、偶然にもテレビをつけたとき最初の1時間を見ることができるタイミングとわかった。後半は以前に見た記憶があるように思うので、これでだいたい消化不良はおさまりそうだと、とても嬉しかった。
…見ているうちに、驚いた。
悲劇の主人公とか、なんとお気の毒な女性でしょうとか、ぜんぜん悪くない無垢な少女が悪い男に引っかかった悲劇…というのとは、ちょっと違うのである。
もちろん、テスが悪い女だったという意味ではなく、誰かひとりが悪い人でテスが完全に被害者という簡単な構図の話ではなかった。それをどうにか無理に縮めると「かわいそうな少女が数年後にはこんなことに」という、そういうまとめ方しかなかったのだろうか。少なくとも当時の雑誌の解説などはそうだったため、そういう方向性で作られた映画だと、わたしは信じてしまっていたようだ。実際に見ると違っていた。
あらすじを書こう。有名な小説家トーマス・ハーディの「ダーバビル家のテス」が原作なので、いまさら誰もネタバレを怒るようなことはあるまい。
テスは、生活力のない酒浸りの(でもプライドだけある)父親と、生活に困っていてなんとか打開したいと考える現実的な母親と、テスを慕う妹たちとで、つましい暮らしをしていた。そんなとき、近隣の大きな屋敷のダーバビル家がテスのダービフィールド家と遠縁であるという話が舞い込んできた。挨拶にいったら資金援助をしてもらえるかもしれないと周囲がテスをたきつけ、気が乗らないままテスは挨拶に出かける。
実はその家はすでに貴族の家名ごとそっくりカネで買った別の人物たちが暮らしていたが、その息子がテスの美貌に目をつけ、自分たちが遠縁であるかのようにふるまいつづけ、仕事を世話してしまう。テスはほどなく実際には遠縁でないことに気づくが、仕事をもらっている以上、そのままの立場に甘んじる。だがやがて、その息子の要求を拒みきれず、関係を持たされ情婦にさせられてしまう。
だが生活のためと迷いつつもその関係をやはり潔いものとしないテスは、その息子に黙って実家に逃げ帰り、そこで子供を出産。だが子供は乳幼児のまま亡くなってしまう。テスをそんな環境に追いやった生活力のない実父はプライドだけはあいかわらずあり、正式な関係ではない子供に牧師の洗礼を受けさせることも拒否したため、テスは素人なりに心のこもった洗礼をして、牧師に教会で信者と認めてもらえないかと掛け合うが、テスに同情しつつもやはりその子供は正式な信者ではないとして、牧師はそれを拒否。テスは自分で埋葬を済ませると、こんな村にいることはできないと、また別の場所を自分で探して住みこみで働く道を選ぶ。
そうこうするうちに、テスに新しい恋の出会いが。相手もテスを思ってくれるのだが、なかなかテスは過去を話すことができずにいるうち、ふたりの結婚の日が近づき…
ここまで書いていったん終わりにするが、テスは強くて、自分というものをしっかり持っている女性である。不本意ながら関係を持たされてしまったことを泣き叫んだところで、前には進めない。だからといって贅沢品をやるからとばかりに夜になって部屋を訪れる男を進んで受け入れるほどには、無神経になれない。自分で決意し、村へもどり、子を出産して、育てようとする。
結婚しようとした男に一度は去られ、自分のためだけならばけっして最初の男の言いなりになるようなことはなかったものの、生活苦で家族を見捨てることができずにふたたび身を任せる。ふたたび情婦に落ちた自分のもとに、愛した男がもどってくる…そのとき、彼女は行動を起こす。
だいたい、日本語で読んだ原作も英語によるダイジェストもこの映画も、まったくもってみっともないのはテスが結婚しようとした男のほうなのだが(こいつの優柔不断さが許せない ^^;)、映画公開当時、悪かったのは最初の男のほうということばかりで、こちらについてはいっさい「おとがめなし」だったように思う。
現在のネット時代ならば複数の人が自由に感想を述べ合って、それを一般人があれこれ読みくらべることもできるが、当時のように情報源がかぎられていると、偏ったものを読んだら比較もできずに偏りっぱなしという危険性が、つねにあったのだろう。
むしろ、最初の男のほうが「いるいる、こういう身勝手なやつ」という具合に、ほんとうにいそうな人物像なのだ。自分で地位や立場を利用して女性を好き勝手にしておきながら「出ていきたいなら止めないけれど、助けが必要なときは、僕がいるよ」と、まるで相手の意見を尊重するかのように、相手のために別れてあげるとでも言わんばかりの男。そして相手の窮状につけこむタイミングでやってきて、ふたたび情婦にしてしまう男。かなり現実味があって、広い意味で書けばダメな男なりに「人間くさい」気がする。
いっぽう、純粋すぎるあまりに、心から愛したはずの女性が過去を語ったとき、ショックで世界の果てまでいったん逃げてしまい、ひどい苦労をしてみて初めて「やはり、もどろう」という男。かなりこちらも身勝手。こんな現実味のないやつは、もどってこなくてけっこうとすら思ってしまう…とまで書いたら、書きすぎか。
さて、35年のもやもやがすっきりした。ちょっと快感。
ナスターシャ・キンスキーは大好きな女優なので、ほかの作品もちょっと探してみたいと思う。