朝一番に、家族(フランス語に縁がある)から、テロ事件のことを知らされた。その時間帯で「60人くらいは最低でもお亡くなり」ということだったが、ネット上でニュースを見ていると、どんどんと人数がふくれあがり、半日後にはお亡くなりだけで130名近くとのことだった。
ネット上ではまた、日本のテレビニュース(とくに地上波)では扱いがまったく低く、ほとんど時間が割かれていないことに、驚きを隠せない人々の声が並んだ。わたしは地上波のニュースをほとんど見ず、最近はもっぱらネットで読んで後追いのためテレビをつける程度だが、みなさんの騒ぎようから推察するに、ほんとうに「たいしてやらなかった」らしい。どういうことだろうか。
おそらく、この件はついその前日に話題になった、通称ジハーディ・ジョンの殺害をアメリカが高らかに宣言したことと、無関係では報道できないからだろうと思う。アメリカについていく、いけいけアメリカと思っている現政府の顔色をうかがうならば、テレビの生放送でつい正直に「ジハーディ・ジョンの件と関係がある」とは、いえないはずだ。だがそれを言わずに済む方法があるとしたら「最初から扱いを小さくしてしまえばいい」ということだろう。つまり政府ににらまれないための自衛手段といったところが8割くらい、残る2割は「ニュース番組を作っている担当は、まじで馬鹿か?」という可能性もあるのだが。
そもそも、わたしはビン・ラディン氏(←迷った末に「氏」と書くが、これは一部の日本のマスメディアがアメリカにつられて「容疑者」という単語を使っていたことに腹が立ったものの、呼び捨てにする根拠は、少なくともわたしにはないため)が殺害されたと報道があったときでさえ、かなりアメリカが怖かった。一国の大統領が、よその国に出かけていって人を殺害してこいと命令し、それが実行されたのだ。そんなことをしていいという理屈が、なぜアメリカでは成り立つのだろう。そしてなぜどの国もそれを真正面から責めないのか。それは戦争行為ではないか。
これは筑波大で1991年に「悪魔の詩」を訳した助教授(当時)が殺害された事件——イスラムに反する本を訳したとしてイランの最高指導者(当時)から各国の訳者らが死刑を宣告されたことと無関係とは思えず、おそらくその命令を実行した外国人による犯行の可能性が高いとされたものの未解決——と、同じ程度に理不尽なのだ。しかもアメリカの場合は目的のために多くの「巻き沿い」や「勘違い」で被害者の数を拡大させている。命を奪われた無関係な人々の家族は、アメリカを恨む。憎しみの連鎖が拡大する。大きくなって、誰にもとめられなくなる。それなのに世論はアメリカに甘く、日本などは率先してしっぽを振って、これからもついていくという。
シャルリー・エブド(週刊誌)の襲撃事件のとき、多くの人がネット上で「わたしはシャルリー」という言葉とともに、意思表示をした。だがシャルリー・エブドは被害者であると同時に「表現の自由」という言葉を楯に毒気のあるものをまき散らしていた(精神的な意味で人の嫌がる加害行為に及んでいた)立場でもあり、そこまでを理解して「わたしはシャルリー」と同調している人が何割いたのだろうと、少し下がった場所から、わたしは見ていた。
今回も、ネット上でフランスの国旗の三色をあしらったデザインで弔意を表そうという動きが出はじめているかと思うが、命を奪われた個々人に対しての深い悲しみを表現するのに、一律の色柄や団体的な行動は、必要ではないように思う。みんなが同じ色柄で「決まり事」であるかのようなムードを作ってしまうと、裏にある事情や大きなものへの思いが、薄れていく。
テロは、自分が正しいと思って相手を罰する、押さえつけるという発想がある限り、ぜったいになくならない。だがもう、対話路線だ、話してわかりあおうというレベルではないのも、実際問題として理解できる。
話し合う気にもなれないほど相手と気が合わないなら、せめて牽制し合ってちょっとおとなしくしてみよう(少なくとも先に手は出さない)という程度の思いだけでもあったら、もう少し世の中はましになると思うのだが、アメリカという国は、そしてアメリカに同調していく国々は、この数十年のやり方をすぐに変えていけるほどには、成熟していないのだろう。