家ではだいたい「きらら397」と「ハツシモ」を交互で買い、たまに近所で目にする米を買ったりしているのだが、昨日ふと「昔の米が美味だったのは、天日干しが多かったからでは」と、考えた。
あんなに手間のかかる作業を、昔の農家はおこなっていた。
わたしの幼少時、周囲は専業ではなく兼業農家がほとんどだったが、田んぼにかける手間はどこも同じだった。手抜きという選択肢もほとんどなかった数十年前ゆえ(もちろん小規模農家向けの手軽な乾燥機や脱穀機もなかったはず)、どの家でも収穫が終わると、竿のようなものを組み立てて稲を下向きにかけていた(←これを「稲架」、読みは「ハサ」というそうだ)。子供たちはその意味も役割も知らずにその周囲をぐるぐると毎日走って遊び、そしていまならとても貴重な天日干しの食品だというのに誰も夜間に盗み出しにやってくるわけでもなく、稲架はずっとそのまま、ゆったりとその場に存在しつづけた。期間は覚えていない。乾燥まで2週間程度だっただろうか。このあたりの記憶は曖昧だ。
東京に住むようになって、ときおり「ご近所さんから天日干しのお米がもらえた」からと田舎からわけてもらった米は、格別な味がした。銘柄はとくに高級品ではなく地元農家に流通するもので、さらには失礼ながら、脱穀の具合や粒の状況(選別が甘く、欠けたものや黒っぽい粒が混じることもあった)は一流ではなかったが、それでも「これこれ、この味!!」と納得できたものだった。
現在、正式に天日干しの米と謳っている商品を検索してみると、1kg当たり700円以上するものが多そうだ。
昔は、あれが贅沢だと気づいていなかった。次に出会うことがあったら、思いっきりかみしめたい。