認知症の義母を引き取ってからというもの、さまざまなことに目が向いてきた。世界はこんなに広かったんだと、ものの見方が少なからず変わった。
それまでだったら「なんでこの老人はこんなに頑固なのだろう」、「なぜこんなことで、くどくど何度も不満を言っているのだろう」と思ったのだが、いまではそれがただの不機嫌な老人か、認知症にもう一歩(あるいはすでにどっぷり)なのかが、瞬時にわかるようになってきた。
今日は自分の通院で待合室に3時間近くいたのだが、かなり症状が進んでいる男性が、同じことを窓口に何度も確認していた。自分がすでに尋ねて回答を得ていることを忘れているので、必然的に語気も荒い。ああ、これはひとり暮らしなのだろうなと感じた。家族が同居していたら、ピンとくる段階だ。
同時に、昨夏に急死した義父(義母とふたり暮らしだった)も、かなり進んでいたのだろうと、再認識した。義母は自分では何もできない人で、おそらく電車に乗ったりどこかに出かけたりといったことも、ひとりではしなかった。何もかも義父に頼り切りで、義父が存命のうちから、わたしたちに「お父さんに何かあったらそっち(東京)に行くけど、それまではお父さんと一緒にいる」と、断言していたほど。
義父が亡くなる前の1〜2年がとくにひどかったのだが、ふたりして「○○をなくしたが、盗まれた可能性もある」やら、「誰それがはいってきて□□を盗んだ」やら、ハタで聞いているととんでもないことを口走っていたそうだ。ふたりの会話は空想と現実のあいだにあって、誰も否定しないでいるうちに、強固な思いに変わっていったのだろう。
ふたりがそれぞれに社会と接点を残していれば、妙な言動があったときにどちらかがそれに気づき、それとなく軌道修正するきっかけを見つけやすかっただろう。あいにくふたりはどんどんと世界をせばめていって、最後の方は「いつかここ(近代的マンション)を出て、昔の家(古くて不便)にもどる」という思いだけがあった。
いつか出て行くつもりでいる場所だからこそ気に入らないことはすべて否定し、昔への思いにしがみつくことが、どんなにか楽だったのだろう。
高齢者の生き甲斐、趣味、社会への参加などを、もうすぐ高齢者になる世代が真剣に検討していかないと、あまり幸せではない老後が待っているように思えてならない。
家に認知症がひとりでも手がかかる。これからの社会にもっとあふれてきたらどうしようと思う。語弊があったら申し訳ないが、ゾンビ映画よりよほどリアルに怖い。ほんと、悲鳴を上げたいくらい怖いって。。。夜中に「ふすまに手をかけてはいってこようとしている」という夢で「ぎゃっ」と飛び起きる経験が何倍にもなるなど、耐えられない。
そして、自分がつられてノイローゼになったり、あるいは認知症になったらどうしようと、その悩みもまたつねにある。
老人のひとり暮らしをさせるなというのではない。同居だろうと単身だろうと、あるいは老夫婦だけの世帯だろうと、本人たちの好きなライフスタイルを維持しながら「正気を保つ」ことができる社会的な策が、急がれる。