存命ではあるが過去形で書くと、わたしの母はかなり若いうちから先を考える人だった。
田舎の家の近所には小さな商店が何軒かある程度だったが、母はできるだけそれらの店を使った。近所では家族に車を出してもらって、市街地まで買いに出かける家庭も多かった。近所では品揃えは悪いし、古いものが売れずにそのままになっていて不安ということは、あったと思う。実際、ときどきそんな愚痴を言っていた。だが「年をとってどこにも行けなくなったとき、近所でいきなり買い物をはじめても、遅いから」と言っていた。おそらく五十前後のころだと思う。いまから思うと、すごい話だ。
そして三十年以上経過した現在、健康な日がつづけば、その方針を貫いている。同居の次世代に自分の都合であっちだこっちだと運転させるのも気が引けるといえば、たしかにそうかもしれない。だが、おそらく現在を見越して、ずっと心を決めていたのだろう。
さすがに読めていなかったのは公共交通機関(バスなど)の激減で、わたしが幼少時は1時間に1本くらいあったバス路線が、1日に数往復になってしまったらしく、市街地の病院などに用事があるときは、ときにタクシーに乗ったり、無理やりでも暇をつぶして数時間に1本のバスに乗ったりと、苦労をしているようである。
現在の世の中は、なんと東京などの都市でさえ、ところどころに「高齢者が徒歩でじゅうぶんに買い物に行けるとは言いがたい地域」ざっくり書けば「買い物難民地域」が生じている。
人は、高齢者はとくにかと思うが、自分でひととおりのことができなくなってきたとき、とても危機感と孤独を強める。住む場所があるという安心感と、「え、住むところがある=安心して生活できるという公式が成り立たない?」という、数十年かけて体に染みついてきた考えが底からひっくり返される不安感。気力が失われていけば心身ともに老化が早まる。
あまりにも環境が自分の考えからずれてしまった場合、不安の次にやってくるのは怒りと絶望。さらにそれが現実否定の方向に強く向けば認知症に片足をつっこむ要因となり得るし、自分だけが否定されていると思えば反社会的な傾向(たとえばはた迷惑なゴミ屋敷)にもつながっていくだろう。
これからの時代(いや、とっくにそうなっているのだが)、老人対策を間違えると社会を大きく圧迫する。ぼけ老人をひとりでも減らしていかねばならないとき、介護保険のサービスからは「要支援」が外されるという話も、実現に向かっているらしい。いいのか、それで。
地方をもっと元気に。年寄りにもっと「質の高い老後」を。人は住み慣れた場所に住みつづけるだけでも、だいぶ幸せでいられる。問題は寿命ではなく「健康でいられる期間」だ。よりよい老後を、本気で考える行政であり、政府であってもらいたい。