地球滅亡もしくは人類滅亡は「西暦xxxx年である」といった話は、ひっきりなしに語られてきた。わたしが幼少時に流行っていたのは1999年のノストラダムス大予言。最近では2012年に滅亡するという話でジョン・キューザック主演の映画「2012」も制作されていたと思うが、その年が無事に過ぎたと思ったら、今度は「それは計算間違いで実は2015年9月でした」と言っている人々がいるんだとか、いないんだとか(^^;。
子供のころといえば、宇宙戦艦ヤマトが放射能除去装置をもらいにイスカンダルにいく話もあったが、なんで航海に必要なエンジンの説明だけ届けてくれたのか、放射能除去装置の作り方を教えてくれたらよかったのにと思った人も、少なからずいたのではないだろうか。まぁ、それはきっとどこかで説明がなされているのだろう。
さて、フィクションなどに見る人類滅亡で数十年にわたり多かったパターンは、なんといっても病気原因ではないだろうか。たとえば小松左京の「復活の日」は、映画よりも小説のラストが恐ろしすぎた。人間の業と愚かさで生まれた病原菌は、いわば同じ親から生まれたものの知らずに育ち、名乗りあってもいなかった兄弟が天敵となった皮肉な展開。近年ではイギリスBBC制作のテレビシリーズ「生存者たち」(原題survivors)も病原菌だ。また、何十年も前から脈々と作られている人類みなゾンビ化の映画作品たちも、最近では病原菌によるゾンビ化をストーリーの主軸に置くものが増えてきている。広義での吸血鬼ものが増えているのも、やはり病気や、体もしくは血液に何かが侵入するといった不安が、かつてないほどに増大しているからかもしれない。
80年代くらいに多かったように記憶しているのは核爆弾による大都市破壊。直撃をまぬがれてどうにか生き延びた人たちもまた、統制を失い、自然環境や住環境が大きく変化してしまった荒廃の世に生きていくもの。国同士が信じ合えないから戦争になった、核爆発後の世の中は乱れたが、少なくとも物語の発端としては、敵は外部(外国)にいた。米ソの冷戦や、当時の欧米の不安材料が影響していたのではと思う。
地球に何かがぶつかってくる話も、それほど多くはないものの、存在する。映画「ディープインパクト」、「アルマゲドン」など。後者はともかくとして、たいていの場合、地球レベルの大規模な変化では、パニック映画にすらならない。事が起こるまでの日数もしくは時間をどう過ごすかという人間らしさを描いたドラマにすることなら可能であろうが、滅亡ものとして考えた場合、今後も数は増えないかと思う。これが隕石や小惑星などの天災ではなく宇宙船であったり、宇宙人による虐殺や抑圧であればまだ話は作れるかもしれないが、映画「スカイライン -征服-」のような終わり方を思うと、圧倒的な力の差で「統率のとれた群れ vs 少人数の一般市民」の構図が最初から示されている以上、あれが精一杯のラストであり、すっきりした気分で見終えることは、できない。
ざっと思いつくままに書いてきたが、人類が地球上から限りなくゼロに近い状態に減るようなことがあるとしたら、全地球規模での大きな気温上昇もしくは低下がいちばんありそうかと想像している。それを引き起こすのは巨大隕石等の激突による大気の塵 → 日差しが弱くなる → 生物や植物が育たない → 食べるものがない、という連鎖だ。病気には必ず免疫がある人が存在するし、放射能もまた危険であることはもちろんだが、戦争等による核爆弾使用 → 都市機能の壊滅によってもたらされる住環境破壊と秩序の喪失、これが最大の懸念事項であろう。短期間のうちに人類のほとんどが生存できなくなるわけではなく、じわじわと、影響が出てくる。
考えても仕方のないことであるが、翌日に何があっても、たとえ今日で人生が最後となるにしても、その日その日にやることは終わったと思って眠りにつくことができれば、あとはもう、慌てず騒がず、生かされているあいだは日々を生きつづけるという考えでいいのではと思うようにしている。