思いを言葉にする力は、とても必要なものだ。
わたしは子供時代に何度も「その場で理解されるような、通じる言葉が出てこない」ことで、苦痛を味わった。だから、言葉をきちんと駆使して自分の思いを表現したいと、折に触れては自分に言いきかせている。
思い出す光景がいくつかある。
小学校の登校時に、友達と3人で話をしていた。当時は近所の子供達と一緒にグループ登校をすると決まっていて、居住地域やグループにもよるが10人前後で歩くことが多かった。帰りは学年によって終わる時間が違うので数人単位だったが、行きは人数が多かったと記憶している。
3人で話をしていたその登校時だ。ひとりが、わたしともうひとりが何を言っても、賛成なのか反対なのかを言わない、何を考えているのかがわからない。だからわたしともうひとりで、「ちゃんと思っていることを言ってよ、なんでも“うん”だけじゃわからないし、友達なのに、それじゃ話をしていてつまらないよ」と言った。
その直後、遠巻きにしていた別の子供達が、わたしたちの声の雰囲気と「つまらない」という単語が聞こえたことで、上級生や学校の先生に、わたしたちが「友達をいじめている」と報告に走って行った。
学校に到着後、上級生や子供達が先生を呼んでやってきて、わたしは囲まれた。その場にはわたししかいなくて、もうひとりは何も聞かれないまま、免れたようだ。
周囲はいじめっ子を見る目で、わたしが先生にとっちめられるのを見ようと見物していた。わたしは先生に説明をしようとした——なぜ「つまらない」という言葉を使ったのかを。だが話をしている途中で、周囲の好奇と悪意の視線に耐えられず、言葉がつかえて、出てこなくなった。すると先生は言いつけるために走って行った同級生らと同じ判断をしたようで「自分がつならないからって人をいじめちゃだめでしょ」と、話は終了してしまった。
(ちなみに、いじめられたことになってしまった友達は、被害者ということで何も確認をとられなかったらしいが、後日なにやらほんとうにいじめられていたかのような発言を周囲にしたらしいと耳にした…それも不快だった)
そのことから数十年が経つが、子供時代に「きちんと言葉が出てこなかった」ことや、自分と相手の語彙が違いすぎて話が通じず悔しかったとは何度かあり、さまざまな例を思い出しては「あのときもっと気の利いた嫌味を言ってやればよかった」と思うこともある。
言葉はいつでも駆使できるよう、普段からたくさん頭の中でシミュレーションをしておきたいと、考えている。