田舎の親と電話で話していて、以前から思っていたことだが最近とみに「ひとりで考えているうちに思いこんでいくものなんだな、年寄りは」と、気づいた。話の最初はこうである。
親「お母さんね、市役所から年寄りむけに来たアンケートにぜんぶちゃんと答えて、ばかにされないように、一生懸命、ちゃんと答えたのに、介護が必要ですって話になってきたみたいなんだよ」
それは、まったくもってあり得ない。お知らせを読み間違えたのだろう。
なにせ杖をつかず歩き、頭も呆けておらず、買い物も預貯金の管理もぜんぶひとりでおこなっていて、同居家族の分まで家の用事をこなしている。そんな人間に「要介護」なんて言ってくる自治体があったら、住民のほとんどがビルゲイツなみに”超”がつくほど納税していて、カネと時間が余って仕方がないことになってしまう。
親「今日だって、ひとりで病院と用事をぜんぶ済ませてきて、家に帰ってきたら、市から頼まれている係の人が、郵便受けに『留守だったのでまた今度お話しましょう』って、紙を入れてたんだ。そんな年になっちゃったんだ、もう普通にできないんだって思ったら、泣きたくなって、暗くなって…」
実にひとりでよくしゃべっている。そろそろ遮ってみることにした。
わたし「要介護じゃなくて、要支援とか、要支援になる前の予防とか、そういうお知らせだったんじゃないの」
親「えっ!」
がさごそ、がさごそ、ずっと紙を触る音がする。そろそろ気づいたかなという頃合いで、電話口にもどってきた。
親「紙にいっぱい文字が書いてあって、よくわからないけど、大きな文字のところは、予防策って書いてある」
そこでわたしが「ひとりで歩けるような人に介護を押しつけてくるほど自治体は暇じゃないし、カネもないから」と言うと、安心したように「そうだったんだ!」。。。
…まったく、一度さらっと読んでみて、文字の量が多いと、もう一度ちゃんと読もうと思わずに頭の中で何度も反芻し、勝手に「もう、だめなんだ…」という結論に達するとは、いったい、なんじゃそりゃー(^^;。
圧倒的に、コミュニケーションが不足しているわけだ。おそらく「恥」のような気持ちが働いてしまい、近所の人との立ち話で「こんな紙が来た」と話題にすることもできないのだろう。そうこうするうちに勝手な想像が事実のようになってしまう。
さらに読ませてみると、高齢者同士の輪を築きやすいように集会に出ればお友達ができるかもしれないとか、集会に出たくなければ係の人がときどき家に来て話をするとか、そういう支援が書いてあったらしい。やっぱりね。ふぅ。
たまに電話しないと、だめだな。