今日はいつになく大風呂敷をひろげるが、世界平和について。
暴力やテロや戦争は、よくない。悪い。これは大前提なのだが、そもそも「なぜ怒る人がいて、なぜ暴力を振るおうとするのか」を考えてみることは、たいせつである。
イスラムには偶像崇拝の概念はない。ここでは控えめに書いているが、むしろ「積極的に禁止されている」と書いたほうが、より正しいほどだ。だから他国や他の文化圏が、たとえどんな意図があり、風刺の権利が認められている状況であれ、イスラムで指導的立場にある人物を絵に描いたとしたら、それを見たイスラムの文化圏の方々は不愉快に思う可能性が高いと思われる。
イスラムの人といえど、他の文化圏に長く住んでいる場合ならば、そして気持ちをうまく整理できる人であるならば、外国の人たちのしていることだからと、何も言わずにいてくれるだろう。だがそういう人たちばかりではない。しかも、嫌がっているのに何度も何度も絵にされたら、これはもう耐えがたい屈辱だと感じる人がいたとしても、不思議ではないはずだ。
現代の世の中は「ここの国(文化圏)では何の問題もないことをしているのに、それで腹が立つなら、仲間だけと暮らせる場所にいればいい」という考え方は、成り立たないし、そういう主張をするべきではない。数多くの人たちが、生まれた土地とは違う場所に暮らし、あるいは国際結婚をし、そして国際結婚で生まれた子供たち同士で新たな土地に暮らす。その傾向はこれからも加速していくだろう。今後どこの土地にどんな文化圏の萌芽が見られるようになるかは、まったくわからないほどだ。
だからこそ、気をつけねばならない。あまりに相手に合わせたり譲り合ったりするばかりの暮らしでは息苦しくなるが、せめて「この人はこういうことを不快に思うだろう」という事項を、あらかじめ気づいておいて、話題にしない程度の工夫をしていけば、ずいぶんと気楽になれるはずだ。
暴力はよくない。ぜったいに悪い。だからといって、自国の指導者を絵に描かれて不快に思っても我慢している人たちがいてくれることまで、気づかないふりをしてはいけない。おたがいに、主張すべきところと、言わずに我慢すべきところと、それぞれを考えていくべきと思う。
さて、せっかく大風呂敷をひろげておいても、ここで身近な例にさせてもらうが、こういった話が、語るのは簡単でも実現は難しいという実例を、ひとつ。
何十年も前から、社会で活躍したいと考えている女性たちの多くは「働いている時間帯くらい、女性ではなく同僚として見てくれないのか、なぜ女性だからという目で見られるのか」と、怒りをあらわにしたり、情けなくなったり、絶望したりと、さまざまな感情を経験してきているはずだ。
いっぽう男性の側(全員とは言わないが少数でも残っていればその人たちが若手の多数をも感化してしまうので切りがない)としては「職場ということで仕事だけに集中するなら男だけでもいいところを、女が仕事がしたいというから仲間に入れてやっている」という程度の、格下を見る考え方が抜けない。
高等教育機関でも、職場でも、実生活(たとえば親の参加が求められるような会合)でも、すべての場所で人数の割合が男女半々になるような環境でなければ、おそらく男性はどこにいても、「格下」を見るような考えが抜けないことだろう。自分の側が優位で正当だと考えてしまうため、相手(女性)が何に苦しんでいるのかがまったくわからないし、わかる必要を感じないのだ。
だがここで「わからなくてもいい」と開き直っていられるのも、いつまでなのか。暮らしづらくて夢がなくて、女性に元気がなくなっていく世の中。これは単純に「何かの(誰かの)せい」と言えるほど簡単な話ではないが、もがいても変わらないものがあると相手があきらめているとき、もがいた手の先にある壁の一部でも一緒に壊してくれる程度の優しさが、誰かにあったっていいのではないか。
さて、ここで話をひとつにまとめよう。
過激な人々はともかくとして、イスラム圏の普通の人々さえも傷つけているかもしれないことに、無神経でいられるのはいつまでか、大手を振って「権利だ、論評の自由だ」と言えることそのものは、フランスの方々がこれまで勝ちとり、培ってきた精神であり、宝でもあるかと思う。だが、ほんの少しだけ、その権利の行使には傷つく人がいるという事実に対し、謙虚になってみても、いいのではないだろうか。
ひとりひとりの、身近なところに、平和の種はあると思う。