国会などでも見られる「全会一致」だが、一見してすがすがしくよいものに思われる方もいらっしゃるかもしれない。だがこれは危険で気持ちが悪いものである。なぜなら「誰かが我慢している」「誰かに棄権させてでも場を全会一致にまとめたいという圧力が存在する」場合が、おうおうにしてあるからだ。
何事においても、反対意見があるほうが健全である。そして全会一致が気持ちよいからと思いこむあまり少数派を黙らせることは、あってはならない。
だがそれではいつまでたっても会が閉められないというのなら「ごく少数の反対がいた」という記録を正式に記載できないような会議は無効とする…という規則を作ってしまえばよいのだ。そうすれば意地でも少数派の意見を記録に残さねばならないということになる。仮にどうしても全員が「賛成したい」といのならば、誰か当番で反対意見に回る人を作ってでも、反対意見の人ならどう発言するかを思い巡らして、考えうる反対意見を記載する——そうすると、問題点が見えてくるはずと思う。
わたしは何事も争いより話し合いだと、理想としてはそう考えている。だが、無理なこともあるだろうと思う。たとえばネットを見ていて、右の考えに浸かっている方々のいる掲示板に、リベラルもしくは左の人は参加できない。場の参加者たちには同じような書きこみでまとめたいという意識が働くため、異質な発言に敏感になるだろう。それに気づき、袋だたきに遭うかもと考えれば、その場を見てすぐに去り、反論しないのが無難だ。
逆にリベラルもしくは左にどっぷりの方々の場でも、同じことは起こる。自分たちは少数派で「目覚めている人間たち」という自負が強い方々もいらっしゃるだろうから、右派を異質な(目覚めていない、遅れている)ものだと最初から見てしまい「寄ってくるなオーラ」を発してしまいがち。これはご本人たちがいくら自分は広く意見を求めていると声高に言っても、やはりそのオーラを出しているように感じられるのだが——。もっとも、右派は左派に意見をどうぞとも言わない場合が多いので、その点のみ多少の違いはあるだろうか。
なぜこんなことを書いているのかというと、ときおり「内容をほんとうに読んでから”いいね!”を押しているのだろうか」と思う事例を、けっこうFacebookで見かけているからだ。同じ人が別々の場所で逆の意見に”いいね!”を押している。それらの”いいね!”は、おそらく読んだよという意味なのだろうと解釈せざるを得ないが、だが押されたほうは「同じ意見の人がいた」と、受けとってしまうかもしれない。
なぜ”いいね!”を押したのか押さなかったのかを、いちいちコメント欄で説明するような人は、よほどの例外事例を除いて、いらっしゃるまい。けっきょくは、押しておけば無難と思ってしまう結果につながりやすいように思う。だがわたしは「これは”いいね!”を押せないな、なんで押さなかったかを尋ねられることはないだろうが、尋ねられたら個人的に答えよう、コメント欄に書くようなことでもないし」と、通過する。そしてその場に残るのは、たくさんの”いいね!”と、波風の立たないコメントばかりになる。その文章を書いた本人は、その状態をなんとなく好ましいと思うのか、より突っこんだ内容のやりとりをしたかったと思うのか、それはわからない。人それぞれだろう。
雰囲気で押し切って形ばかりの満場一致にするのなら、会議は要らない。だが「反対意見があったことを記載できないなら無効」という規則を作ることすら、大小を問わずほとんどの社会的活動(とくに国会など)では、おそらく無理だろう。わかりやすい事案、数で押し切れそうな事案のみ先に手をつけることが多いのだから、国会内の話など、誰も手をつけたがらないはずだ。だができるだけ早くそうすべきだと、わたしは思う。