つくづく、世の中は捨てたものでもないなと思う。少なくともわたしは、いろいろな人の温かい思いに、たすけられている。
このところ気持ちに浮き沈みがあるせいか、今日もしんみりと何かを考えていた。理由のひとつには、腰痛が治りそうでありながらも治らないこと(昨日から試しにコルセットを着用)。そして腰痛が長引いたら持病に影響するのではという不安があること、さらにいくつかの「ついていない」現象が、今年にはいってから重なったこと。
だが、ネット上を含めたいろいろな人の思いにたすけられ、わたしは毎日ちゃんと寝起きできている。明日の予定も立てた。近所ではあっても普段それほど歩かない場所にパン屋ができたらしいので、それを見に行こうと楽しみにしている。
そういえば半月くらい前だっただろうか。初めてメールを差し上げる方に、できるだけ丁寧に書こうと緊張したあげく、うっかりミス(確認不足)をふたつも書いてしまった。先方はわたしにその二点をはっきりと指摘するどころか、ひとつはわたしの書き間違いを読んでいないかのごとくご自身の言葉で語り、もうひとつに関しては、その部分を抜きで(おそらくはっきり書くとわたしの勘違い部分とかみ合わなくなるので)それ以外に関係しそうなことだけを説明してくださった。いただいたお返事と自分の差し上げた文章を読み合わせてみて、わたしはその思いやりに感謝すると同時に、文章ばかり丁寧を心がけてもうっかりミスで間違ったことを書いてはなんの意味もないと、反省した。
そして、ネットで何かを書けば、がんばってとか、楽しみにしているよとか、ちょっとした声をかけてくださる方も大勢いらっしゃる。おそらくその方々は普通の気持ちからそうしてくださっているだけなのだろうが、自分がほかのことで落ちこんでいたり、気分が暗いときにそう接していただけると、とてもありがたい。顔が見えなくても、声が聞けなくても、そしておそらく実際に会うことがないであろう方々であっても、かけていただく言葉からわたしが受け止める思いの重さは、どれも同じだ。
誰かに「見ているよ」と伝える、ただそれだけで、元気になれる人がいる。それを実感しながら日々を送れば、自分もまた誰かを元気にしていけるかもしれないと思う。
さりげなくかけあう言葉の重みを、大切にしていきたい。
誰かを批判することは(行為としては)簡単だ。だがその結果を想像することなしに発するのは配慮が足らなすぎる。たとえば自分の発した言葉で相手がどんな反応をするのか、そしてその反応が直接自分にむけられたとき(たとえば荒々しいかどうかは別として自分宛てに反論があったら)、それをきちんと受け止めて、そこからさらに「対話」をするつもりがあるのかないのか。ないのならば、ただ石を投げて終わりにしただけの行為、ということになる。
言ったら終わりの無責任な言葉ではなく、自分が言葉を発することにより何が生まれるのか、そこを考えながら暮らしていきたい。