1週間くらい前のことだが、夕方から夜にかけて、自分でもはっきりとわかるほど奇妙な精神状態となり、泣いた。涙をこらえてみたり、我慢できずに他室に移動して10分くらい顔にタオルを押しつけて泣いたりと、思い出すだけでつらい。だがもっとつらいのは、すでに翌日には「なんであの件であんなに悲しかったのだろう」と、もう自分が理解できなくなっていたこと。
このまま壊れるかなぁと、思うことがある。何がとくにつらいとか、わかりきっている原因があるわけではない。つかみどころがないものが溜まって、だがしっかりと自分をとらえている気がする。
たしかに家には、2011年の震災の年から、認知症の義母がいる。落ち着かないし、たまに怖い。怖いというのは悪意に満ちた行動をとられたり悪態をつかれるかも…ということではなく(そういう時期もあったが薬で抑制)、夜中や明け方にうるさくされたらどうしようとか、まれに1日何度も粗相をすることがあるので今日そうなったら夜も眠れないとか、そういった心配だ。たいていの場合は杞憂であり、取り越し苦労に終わることも多い。
もうひとつは、わたし自身、持病の心配がある。
持病の悪化が心配なのではなく(——命まで取られる病ではないので、もし万が一にも悪化したら薬やさまざまな手を講じたり、最悪の場合は数週間の入院をすればよい——)これもまた義母に関係しているのだが、「具合が悪くなったら、おちおち寝てもいられないだろうな」と想像をしてしまい、どつぼにはまるのだ。
わたしが動けなくなったり入院したら、家の中でどうにかたもたれているバランスが崩れる。二人暮らしのときの数回の入院ですら、この上なく負担をかけた。義母がいる状態でわたしが動けなくなったら、何が起こるかを芋づる式に連想してしまう。連想の雪崩で恐怖を感じることがある。
だが冒頭に書いた先週の件は、よく考えると「なんであんなに泣いたのか」、それが自分で共感できないというか、実感できない。理屈は覚えている。これこれをこう考えたからああいう暗い気持ちになった、という筋道も覚えている。だが、そのときの自分に、いまの自分は共感できない。
おそらく、その日を境に、わたしは少し明るいのだろう。だからそのときの自分が好きではないのだろうと、想像する。
明日の昼に到着するミニ冷蔵庫を楽しみに、今日は休むとしよう。ひさびさにクロワッサンを焼く予定だし、いろいろ菓子の写真撮影をしようとも、考えている。
明日は、いい日だと、思う。