以前にも「全会一致を不可にすればよいと思う」という3月の記事で書いたことと重なるが、日本の社会ではおうおうにして、多数決で負けた方は存在しないかのような扱いを受ける。少なくとも、わたしはそういう印象を強くいだいている。
政治に不満があるとき、とても違和感のある言葉を、頻繁にネットで見かける。
「でも僕たち(わたしたち、あるいはみんなで)選んだんだよね」
今日だけで3回も見てしまったが、直接の知り合いの言葉でもないのでコメント欄におじゃまして「わたしをみんなに入れないで」などと大人げないことを書くのはもちろん控えたが、なぜ頻繁にこれを目にするのだろう、そしてなぜそれが気になるのだろう、と。
わたしが気になっているのは、おそらく多数決の結果だからあきらめよう、仕方なかったのだと(少数派が)自分を慰める言葉ではなく、勝った側であり現在は与党にいる側を応援していた方の口から、発せられることが多いように感じられるからだ。おそらく「ちょっと失敗したのかもしれないが、自分だけが間違えたのではなく大勢が選んだからいまの与党があるのだろう、ドンマイドンマイ」と言っているかのように、感じてしまうのだ。——実際にそういうつもりで書いていらっしゃる方ばかりではないことは承知しているが、あくまでも自分が直感的にいだく感情としては、そうなのだ。
多数決で負けたから相手は存在しないかのような、全員で勝った方を応援するのが筋というものであると勝者が考えているような態度を、敗者は強く感じている。そして変わり者で偏屈で、ほとんどの場合は負ける側を応援することが多いわたしは、いつも「勝ったからといって存在しないかの様に扱うな」と不満をいだいている。ざっくり書けば、という構図なのかもしれない。
多数決で、大筋は決まっていくだろうけれども、反対派がいないわけではない。まして全員が同じ方向を見て均一な考え方で行動するわけではない。個々の存在をじゅうぶんに認識しつつ社会を気持ちよく運営していくことは、おそらく難しいということなのだろう。いつも政治に失望するたびに、それをかみしめている。