ときどき思い出すのが、割れた窓の理論。
窓が割れている家がある、車がある、あるいは何かが壊れている。それに関心を示さずに周囲の人が平然としていると「なんだ、これくらいのこと、この場所では可なんだ」と、もっと大きなことが起こる。それでも声をあげずに(あげられずに)ただ雰囲気の悪化におびえて、引っ越してしまう人もいるかもしれない。するとますますその土地は荒れる…。
これについては、70年代くらいからすでに言われていた。たとえばこの理論の大家である心理学者フィリップ・ジンバルド(スタンフォード大学での歴史に残る監獄実験——看守と囚人役の学生を決めて役割分担をするとその学生らの態度や考え方がどうなるかを指揮した人物)は、60年代後半にカリフォルニア州のパロアルト(高級住宅街)とニューヨークの治安の悪い場所に車をそれぞれ1台ずつ放置し、誰がどう手を出すかを観察した。ニューヨークのほうに比べてパロアルトは誰も手を出さないため、窓を割ってみた。すると人々がやってきて次々に内部のものを盗んだ、というもの。
この理論は広く知られ、その後90年代後半からニューヨークの市長を務めたルドルフ・ジュリアーニは、警官を増員しパトロールの頻度を上げさせ、小さな異変であっても細かく目を配れる体制を整えたところ、同市での犯罪の認知件数が減ったとされている。その成果を、日本でも参考にしている警察署はあるらしいと聞く。
一見、よいことではある。犯罪もしくは犯罪の予感におびえている人には、朗報かもしれない。
だが別の面から考えれば、これは普通の人々の普通のやりとりで信頼と安心が得られていた時代から完全に離れ、公的機関に目を配っていてもらいたい、一般人はどんな人物がいるか不安だという、「自ら”大きな存在”の下についていたい」と考える集合体への依存もしくは(より強い表現を使うならば)隷属に心地よさを感じはじめているとも、言える。オーウェルの有名作品1984で言うなら「ビッグ・ブラザー」のような存在にも似通ったところがあるかもしれない。
そしてその傾向は、あらたな疑念や、猜疑心を生むことにもつながる。たとえば上記のニューヨークの例では、有色人種が犯罪を疑われる件数が増え、誤認逮捕が大きかったとも聞く。未然に防ぐということは、聞こえはいいが、はみ出したことをすれば疑われやすくなるという、恐怖社会への一歩にもつながりやすい。
ひとつ、卑近な例を書いてみる。自由な遊び場の減ってきた少年らが公共の場所で大声で雑談したり楽器を奏でたとしよう。数十年前の田舎社会のように、その少年らに声をかけたり音楽を奏でる時間帯の相談をするのではなく、現在ではいきなり通報する人もいるかもしれない。そうすると少年らは行き場所がなくなる。別に犯罪をしているわけでもないが、少年時代を忘れてしまった現在の年長者に迷惑になったというだけで、彼らは肩身が狭くなる。社会は窮屈になる。
誰かにパトロールや防犯などをまかせ、自分と家族のこと、身のまわりのことだけを考えていればいい世の中、そういうのが理想なのだと考える人も、いるかと思う。その価値観が否定されるべきではないが、そういう人ばかりになると、予想外の事態が起こったとき、社会の大半があっというまに「何かの存在」に首根っこをつかまれ、嫌と言えなくなる。誰かの支配下で、流されるままになる危険性も否めない。
この話がどこに向かっているのかは、もちろんこのブログをよく読んでくださっている方にはおわかりいただけると思うが——
もし仮にこの数週間「安保法案に反対! 平和がいい」と気づいて声をあげた人が、もし今回の法案だけに声をあげてことが終わると思ったら、それは違うと思う。ある程度までは人まかせにせず自分の住む社会と環境をよく知り、今後もずっと、いつでも声をあげる覚悟で社会に参加していかないならば、同じことは何度でも起こると思う。叫ぶだけでいいのは最初の1回のみだ。2回も3回も叫ぶころまでには、やはり自分以外の周囲についても学んで、違う立場の人がいるということだけでも、意識のうちにとどめたほうがいいと思う。そして違う考えの人がどうして自分と違うのか、想像だけでもしてみることができたら、おたがいにわかりあえるかもしれない。
わたしは、人を信じたい。あまちゃんと言われようと、やはり人を、そして「言葉のちから」を信じたい。人はまだまだ、話し合えると思う。
(かといって、防犯カメラのように、すっかり日常に定着してしまっているものまでを強く否定するほど、お人好しではない。あくまで中間的な立場だと思う)