三日連続で近所のクリニックに指先の包帯交換に出かけた。当初の予定では当日と翌日くらいで終わるだろうと(医師もわたしも)思っていたのだが、意外にしぶとい。治りかけている段階で内側が化膿しているにもかかわらず皮膚が切開した場所を閉じようとしてしまうので、包帯交換のときにそれを確認してもらわねばならない。あと1回で済むとよいのだが。
さて、そんなこんなで、どうにか時間を見つつ待合室に腰掛け、意外に早く終われば菓子店に寄ったりホームセンターなどに行ったりしてわずかな時間の気晴らしを楽しんでから帰宅しているのだが、今日の夕方は、少し驚いた。勝手に数秒間パニックを起こしそうに!?
駅にやや近いあたりで買い物をすませ、道に出ると、小雨で濡れた歩道に雨合羽を着た三人連れが腰を下ろしている。
——なにしてるんだろう。
たいへん失礼だが、なにが起こっているのか、事情がすっかり頭から抜けていたわたしには、その人たちが緊急事態でそこに座るしかない状態なのだと(極端に言えば火事から逃れてきたとか、災害があったとか)、思ってしまった。一瞬だけ難民という単語すらも浮かんだ。おそらくわたしは疲れているのだろうが、それにしても光景が異様に思えた。
さらに見まわすと、数メートルおきに何人かが、道に座っているではないか!
——この人たち、なに? ここは商店街でデモやる場所でもないし、災害があったとも、火事とも聞いていないし、あーっ、あそこにも人が!
数秒間、勝手にパニックして、ようやく思い出した。今日と明日は高円寺駅前の阿波踊りなのだ。いつも100万人くらい出るらしいと聞いている。時間はまだ12時くらいだっただろうに、その人たちは何時から座っていたのだろう。
おかげで、明日の昼ころに駅を出て吉祥寺に出かける用事の際は、阿佐ヶ谷までバスで出て電車に乗るほうがよいと気づいた。帰りもそうするとしよう。おそらく帰りなどはもう、高円寺は地元民の歩くところではなくなっているはずだ。
それにしても、わたしはほんとうに疲れているようだ。なぜあれっぽっちのことで、難民という単語まで浮かんだのだろう。
早朝の、もうひとつの笑い話。
そろそろ起きねばという夢の中で、どうもうちの家族がモデルと思われる人物が出てきた。疲れているはずなのに、周囲の人が見ているからと一生懸命に明るく振る舞い、わたしにまで(周囲の人に見えるようにしつつ)とても親切に手土産をくれた。
そのときわたしは「疲れていてもこんなポジティブな行動ってあるんだ。わたしもぜひ、こういうふうにしなければ!」と、えらく感動したのだが…
…その直後、モデルとなった実在の人物が階段を急ぎ足でのぼってきて、義母に関して小さく悪態をついた(笑)。服が汚れているようなので、余分な服があれば着替えさせねばならないと、相談された。
…そう、現実は、けっこうこういうものだ(笑)。雨で乾かず部屋中の壁に干されたままの洗濯物以外では、ほとんど予備がなかったが、どうにかかき集めた。だから今日はいざというときの服の予備まで、通院のあとで買いに行くことになったわけだが。それを「振りまわされている」と考えるよりも「買い物に行くきっかけになった」と、思えばいいことだ。
ま、気持ちだけポジティブでありたいという目標を胸に、ぼちぼち暮らしていこう。