わたしはかなり「雑談」の心得(!?)がない人間だろうと思う。原則として、ひとりでいるのが好きだ。わざわざ電話をかけてきて話をしたいと思ってくれる人がいたにしても、受話器を手にするとまず「この人の用件はなんだろう」と考えてしまう。そして相手の話の内容に「これについて悩んでいるのか、解決策を求めているのか」と、いちいちまじめにつっこんでしまう。相手はただ話したいらしいと気づくのが遅れ、どうしたらいいのかととまどう。おそらく当時の電話相手のみなさんも、話がつづかず困っていたかと思う。
この性格と不器用さゆえ、用件がはっきりした通話を除き、自分の親以外と話をすることはなくなった(笑)。
だがそれでも、自分の親とですらたまに「世間話でなんとなく言っているのか、解決策を求めているのか」と、わたしはわからなくなる。これこれを買いに行きたいが店の定休日と自分の出かけられる日が一緒で、買いに行けないと、世間話としてわたしに言っているらしいが、以前からその話は出ていた。何週間も困っているのならたいへんだからと「買って送ろうか」と、言ってしまう。どうやらそういう話ではなく、それが雑談らしい。
自分の親ですら、わたしより高度な雑談力を持っているらしい。困った。これはかなり困る。
こどものころからよく、言われていた根拠はわからないが、複数の人から「人の考えていることがわかりすぎて、けっきょく何も言わずに内側でただ考えているんでしょう」と言われた。それとまた同時に、別の人たち(おもに家族や身内同然の人から)「なんでそれくらいのことがわからないのか、それくらいの機敏がなくてどうする」と、なかばなじられたことも多い。どちらも幼少時から田舎にいた高校卒業までの期間の話で、わたしには両方の評価があったようだ。
ひとつ、とくによく覚えていることがある。ご近所の人(仮にAさん)が電話をしてくることになっていて、あちこち移動する人なのでこちらからかけ直しはできないということになっていたらしい。わたしはたまたまその電話を受けた。「○○さん(苗字)ですか」と聞かれ、「はい」と答えながら、聞いたことがある声だな、ご近所のAさんかなと考えていた。するとそのAさんらしき声が、わたしに「△△さんですか」と尋ねてきた(←それは家族の名前で、年齢も性別も違う)。
△△は家族のひとりだが、わたしの名前ではない。そしてわたしが受けた質問は「苗字が○○さんといってもお名前△△さんがいるご家庭ですよね」ではなく「△△さんですか」なのだから、「違います」と答えた。ご近所の人らしき電話は「えっ」と言って、まもなく通話は終了した。
その後まもなく母がやってきたのでそれを伝えると「なんてこと言ったの。あちらからかけてくるしかないのに!」と。だが、わたしはAさんがそんな大事な用件でかけてくるとも事前に聞いていなかったし、Aさんから受けた質問に即した答えをしたのに、この人(母)は何を言っているんだと、もうそこで黙りこんだ。話のレベルが違うのに、会話はつづけられない。何を言ってもだめだこれは、と。そう思ったような気がする。
いまにして思えば、おそらく小学校高学年くらいだったのだろうに、ずいぶん融通の利かないこどもだったのだろう。
だが、わたしはいまも、人と用件以外の通話はせず、ネットでも自分が発信した内容に人様がコメントを寄せてくださってはじめて意思疎通ができているような暮らしを長くつづけていて、雑談力、コミュニケーション能力などは、そのころと大して変わっていないのかなと、思うこともある。
自分で「あまり人とうまく接することができないかも」ということに「気づかなくて済む道」を、うまく選びながら生きているのかもしれない。それはそれで、この先もさほど不自由はないかもしれないが、たまに何かのはずみに、自分についてあれこれ考えるきかっけとして「雑談力」については、気になっている。