思い当たることがないのだが、この半日くらい、頭からホメオパシーのことが離れない。ホメオパシーといえば、解説は不要かもしれないが18世紀ころにヨーロッパで生まれた民間信仰というか代替え医療というか…とにかく健康でありたい人たちが独自に考え、推奨している療法である。詳しくは → Wikipedia: ホメオパシー
ホメオパシーについて、もしよい面があるとしたらひとつ思いつくのは、一般の薬や世間のやり方とは異なる方法(気の持ちようも含む)で症状が改善したと、本人がそう思えることだろう。つまり、実際の効果があるなしではなくて、気の持ちようで日々の生活が楽になっていくこともある実例になりうるという、それだけのことだ。
なぜ頭から離れないかはぼんやりとしかわからないが、ホメオパシーには思い出がある。わたしはホメオパシーのようなものは好きではないし、本人が信じている分にはかまわないのだが家族や関係者に無理に勧めたり、ほかに選択肢を与えず治療を受けさせないようなことがあってはならないと思っている。そしてこの自分の考えについて、けっこう多くの人が持っている一般常識だろうと思っていたのだ…
ところが数年前のこと。料理や製菓の話題で活躍する人気ブロガーさん(海外在住)が「日本でホメオパシーが”バッシング”されている」と書いて驚いた。しかも「ホメオパシーが流行ると困る立場の人が日本にいるのだろう」とまで。
いや、そもそも、流行らないし。バッシング以前にその存在を相手にしない人もいるだろうし。自分が信じているだけならまだしも、乳児に適切なケアをせず飴(レメディ)をなめさせて死亡事故になった事件も実際にあったし——
100年の恋も冷めるとはこのことか。よく読んでいたブログだったが、その日のうちにもう読みに行かない決心をした。
そのこと(つまり自分が勝手に気が合う人だと思って読んでいたブログの書き手が、そういう考え方の人だと気づいたこと)が、今日は何度も思い出されてしまうのだ。
漠然と、なぜこのことが思い出されるのかを、半日かけて考えてみた。
おそらく「ちょっとしたときに出る言葉などささいなことをきっかけに、人同士は理解を深めることもあれば、愛想を尽かすこともある」と、この数日の熊本地震関連報道(およびそれを見てシェアするなどした人々のリアクション)を通じて、身にしみたからなのだろう。
人は黙っている状態では勝手に自分の周囲に仲間が多いと思ってしまいがちなものだ。だが大きな事件があったときにネットで「この人はこういう意見にいいねを押す人だったのか、ほほぅ」と、ちょっとしたことで驚く。そして、自分もおそらく相手からびっくりされているのだろうと気づく。
意見が違う人が周囲にいると気づくのは、人生の経験としては貴重で楽しいことだ。たがいに抱いている別々の考えを相手に無理に聞かせることでもしないかぎり、適度な距離感をいだきつつも、普通におつきあいしていけるものだと信じている。
大きな不安があるときにこそ、人はそれまで触れたことのなかった情報に惑わされやすい。集団でまたたくまに形成される「意見のうねり」や「ムード」のようなものは、ときとして暴力的で凶器にもなりうる。だが同時に、逆のうねりもつねに生まれるものだ。そのどちら側に目を向けるか、どちらに寄り添っていくかを、惑わされることなく自分の考えで選んでいけたらよいと思っている。