正直なところ、これを読んで「すごいな」と感じた。ひとつには世間を揺さぶった大きな事件について、現職国会議員に家族の事情を知りつつ、いやそれだからこそ、不快に思われる懸念があったであろうにインタビューを申し込ん毎日新聞。そして、遠慮は不要とばかりにその場を最大限に活用し、思いの丈を吐きだしたのであろう野田聖子衆院議員。
恥ずかしながら、野田氏のご子息が幼くして何度も手術をくり返すご病気であったとは、まったく存じ上げなかった。障害者へのある種の嫌悪を肌で感じてきた野田氏は、いつかはこんな事件があるような思いをいだいていたという。
野田氏 息子は、心臓疾患や脳梗塞(こうそく)などで11回もの手術を小さな体で乗り越え、来年からは小学生になります。その息子の治療について、インターネット上にはこんな声もあります。ある人は「野田聖子は国家公務員だ。今、財政赤字で税金を無駄遣いしてはいけない、と言われている。公務員であるなら、医療費がかかる息子を見殺しにすべきじゃないか」と。これを書いた人は、作家の曽野綾子さんの文章に触発されたようです。
財政赤字であれば、社会における「助け合いの心」は、不要であると書く人が実際にいることに驚きを隠せない。そして文中でも示されている曽野綾子氏の文章には、とてもではないが人の心があるとは思えない。生まれてきたときから、生まれてきたという誰とも変わらない普通のことをしているだけで、その子や家族は周囲の世話になっていることをしみじみ認識して暮らせというのだろうか。新しい命が生まれてきてありがとう、一緒に暮らそうと歓迎するのが、普通の社会のあり方ではないのか。
障害者がお荷物とか、税金がもったいないとか、そういう考え方をする人はおそらく自分が税金の恩恵で暮らしていることにまったく思い至らないのだろう。たとえば自分が当たり前と思って享受している社会の仕組みが、ほかの無関係な誰かから「あなたが受けているサービスは不要だ、そもそもあなたが暮らすために使っていい税金は1円もないと思っている」と言われたら、どう思うだろうか。みんな自分のことは自分でなんとかすべきと思っているのか。それが可能だと、可能であるべきだと思っているのか。少しは自分の身になって考えてみれば、わかることであるはずだ。
障害者は特別な存在ではない。社会の中に必ずいる。昔も、いまも、これからも、普通に共存できる存在として。
野田氏のインタビューは、相模原の事件で「被害者の」実名報道がなされないこと、障害を隠そうとする考え方があるという事実にも踏み込み、ご自身は息子さんのことを隠さない道を選んだとしている。
しめの言葉が、心に突き刺さる。
> ……容疑者にも知ってほしかった。命ってすごいんだぞって。ちょっと前まで体に17本ものチューブをつながれて生きていた子が、今は2本に減って、安倍さんや石破さんのモノマネして悦に入っているんですから。命の可能性の醍醐味(だいごみ)をもっと知ってほしかったと思っています。
不妊治療や多くの苦労をされた上で、高齢で出産した野田氏。その心の大きさを、垣間見た気がした。