数日前の電車内で、何年ぶりだろう、あの独特の匂いを嗅いだ。わからない人にはわからないかもしれないし、現在の用語として適切なのかどうかは不明だが、いわゆる「浮浪者が移動しているときの匂い」だ。
いまはテレビ等で「ホームレス」という言葉を同等のものとして使っているのかもしれないが、あの匂いは、わたしにとってホームレスではない。現在のホームレスに知り合いがいるわけではないし、段ボール住居を見せてもらったことがあるわけでもないが、伝えきく現在のホームレス像は、見た目において、わたしが目にしていた浮浪者とは違う、なにやら「こざっぱり」した面もあるのではないかと想像している。
20年以上前にわたしがまだ会社の用事で銀座を歩いていたころ、ごくまれに、浮浪者が移動している現場に遭遇した。一ヶ所にずっととどまって、着替えも入浴もせず、体には尿のようなツンとくる匂いがしみついている。動くと風に乗ってその匂いがあたりに漂った。先日なくなってしまったが銀座一丁目の「プランタン」のあたりをあの匂いとともに浮浪者が移動するのは、とても奇異な光景だった。
最近でもごくまれに、地元の商店街にたいへん匂う老人が歩いているところを目撃する。ズボンには色染みが付いていて、家がないのか、あるいは自宅があってもゴミ屋敷になっているのか、要するに自分に頓着しない状態になっているのだろう。
体に尿や汗がしみついて、どこまでが服でどこからが皮膚かすらぱっと見ではわからないほどすすけてしまっているあの人たち、わたしの感覚では、あれは浮浪者なのだ。
さて、話をもどそう。
数日前に昼間の山手線で、その匂いを嗅いだ。匂いの意味がわかっている人たちは口をつぐんで、そっとあたりを見まわし「原因となりうる人物」がどこにいるのか、目を泳がせただろうと思う。わたしはそうはしなかった。匂いが多少「遠そうだ」と思ったためだ。匂いはほどなく消えるだろうし、人物をことさらにじろじろ見てみたい気持ちもなかった。
そのとき、声の感じでは中学生か高校生くらいの女の子がふたり乗車してきた。
おそらくそれくらいの年齢の子供だと、こういった匂いが、正確には把握できないのだろう。声をひそめるほどではない普通の音量で、ふたりは話しはじめた。「なんだろう」、「公衆トイレみたいな感じ?」…といった具合だ。人間が発している匂いという認識はないのだろうと思う。人間が原因と思えば、声に出したら本人に何か言われる、あるいは何かされるといった思いから、自粛するのが普通と思う。いくら子供といっても、それくらいの判断はあるだろう。
おそらく、東京が以前よりきれいになって、かつての新宿の「夜遅くなるにつれ寝泊まりする浮浪者で怖いくらいにせまくなった地下道」というものすらほとんどないか、あるいは縮小されているであろう現在、同じ匂いを嗅いでも、それが人間にもたらす情報量というのは質も量も異なるものなのだろうと想像する。
あの匂いは、減ったと思う。だがかつてないほど貧富の差があると思われる現在、あのころの浮浪者のような存在、あるいは現在のホームレスたちは減っていないはずだが、いったいどこにいるのだろうか。
山手線のその匂いは、数駅ののちに消えていた。